高橋フミアキからのご挨拶
私の人生で一番大きなインパクトのあった出来事はちょうど50歳のときに起きました。
いまでも、そのときのことを思い出すと涙があふれてきます。
悲しいという感情ではありません。
悔しいとか、ツライというのでもないのです。
なぜか胸が締め付けられるような感じがします。
当時、私は、ビジネス本を出版し、それがバカ売れしてベストセラー作家の仲間入りをしました。
まとまったお金が入ったので、居酒屋を杉並に開業し、2店舗目はバーを四谷にオープンしました。
四谷のバーがテレビやラジオ、新聞や雑誌などで取り上げていただき、たいへん繁盛しました。
その新聞を見て、15年以上前に離婚した元妻が訪ねて来たのです。
元妻とは広島の高校時代に交際していました。
広島から東京へ呼び寄せて結婚し、娘が生まれ、娘が小学1年生のときに離婚したのです。
当初、娘は元妻が引き取ったのですが、元妻は精神が病んでいて、虐待をするようになったので、娘が中学生の時に私が引き取りました。
それからは、私がシングルファザーとして育てました。
元妻は西荻窪に1人で住んでいて、パートで働きながら暮らしていたようです。
広島から上京して、親戚も友だちもいない東京で1人さみしく、ひもじい思いをしていたのかもしれません。
コミュニケーション障害がありましたので、職場を転々としていました。
職場の人間関係でトラブルを起こしてはクビになるのを繰り返していたようです。
それで、ついに、雇ってもらえるところがなくなり、私のバーへやってきたのです。
「フミちゃんとこで雇ってくれないかなぁ」
と元妻は言いました。
コミュニケーション障害のある元妻がバーで働けるわけがありません。
私は、
「お前がここで働けるわけないだろ」
と冷淡に答えました。
「でも、もう行くところが・・・」
「頼むから帰ってくれ! 早く帰ってくれ!」
他のお客様が好奇の目で見ていて、その視線が気になったものですから、私は、とにかく、一刻も早く帰って欲しかったのです。
そうやって、冷たく帰らせました。
■冷淡に帰らせたことの罪悪感が・・・
その3か月後に、元妻が亡くなったのです。
西荻窪のアパートで孤独死した遺体が発見されたのは死後2週間たってからでした。
私と同級生でしたから、元妻の年齢は50歳です。
50年という短い人生がどのようなものだったのか、
元妻が語っていたことを振り返ってみると、
私の知る限りでは、父親との確執に苦しんだ人生だったような気がします。
元妻の父親は偏屈な人で酒乱でした。
酒を飲んでは怒鳴りちらし、四六時中仏頂面でした。
怒った仮面が貼りついたような顔をしているのです。
お兄さんとお母さんと彼女とで「家を出ようか」と相談したこともあったようです。
しかし、彼女の母親にそんな勇気はありません。
「耐えるしかない。結婚なんてするもんじゃない」
そう母親は彼女に言い聞かせていたそうです。
彼女と父親は毎日睨み合いをして暮らしていました。
憎しみ合う父娘です。
彼女は、30近くなって、広島から家出して私の住む東京へやってきました。
私と結婚してからは、今度は私を憎むようになりました。
私が何もしなくても彼女は怒ってきます。
口をきいてくれなくなり、仏頂面のまま、
1ヶ月も2ヶ月も挨拶さえありませんでした。
父親への復讐を、私に向かってしているような感じです。
まさに復讐の連鎖です。
彼女が私を憎むような目で睨んでくると、私も睨み返していました。
ヒドイ言葉で罵ったこともあります。
最低、最悪の夫になっていく自分が嫌で嫌でしょうがありませんでした。
いつの間にか、私は、その復讐の連鎖のなかに巻き込まれていたのです。
そんな結婚生活の記憶しかありませんでしたから、
彼女が亡くなったと聞いたとき、
気が張っていたものがスウッと抜けていくような心持ちでした。
彼女が亡くなってから、私は放心状態です。
力が入りません。
何でもないときに、スウッと涙が流れ落ちるのです。
食事をしているときも、思わず涙があふれてきて、
娘がそっとハンカチで拭いてくれたりしました。
仕事をする気力がなくなり、無気力になっていきます。
すべてに、やる気がなくなり、お店も閉めてしまいました。
作家業のお仕事もすべて断って、何もしない日々を過ごしました。
娘とバリ島へ行ったり、沖縄へ行ったりしましたが、元気は戻ってきません。
魂が抜けてしまったような感じです。
「お金がなくなったら死ねばいいや」
そんな投げやりな気持ちになっていました。
死への誘惑に引っ張られていたともいえます。
■無気力な私の転機になったものとは?
元妻が亡くなって1年がたち、私はヒプノセラピーに出会いました。
ヒプノセラピーを受けるようになり、少しずつ回復していきました。
「この療法があれば、コミュニケーション障害だった彼女を治すことができたかもしれない」
「もしかしたら、自分はそういう仕事がしたいのかもしれない」
と思い、ヒプノセラピストになるための勉強をし資格を取得しました。
ヒプノセラピーを勉強するうちに、
前世とか、魂とか、霊というものの存在を感じるようになり、
人間はスピリチュアルな存在だということを知りました。
その後、一般社団法人スピリチュアル・ライフコーチ協会でコーチングの訓練を受けました。
スピリチュアル・ライフコーチングを受けると
「私たちは魂の成長のために生まれてきたのだ」
ということが身に染みて理解できるようになりました。
しかも、私たちは人生のシナリオを決めて生まれてきます、
そのシナリオを知ると気持ちが楽になります。
私の場合も、元妻が変死することは人生のシナリオに織り込みずみなのです。
元妻が変死するという出来事は、
魂の成長のテーマとしては、いったい何だったのでしょうか?
どういう意味があったのでしょうか?
スピリチュアル・ライフコーチングを受けるなかでそれが見えてきました。
■人を癒すスキルがあれば結婚生活もうまくいったはず!
私は小さいころから「可愛い、可愛い」と
両親からも兄弟からも周囲からも言われ続け、
無条件の愛を受け取ってきました。
ですから、愛を受け取るのは得意なんです。
しかし、愛を与えることが苦手でした。
お恥ずかしい話ですが、50歳になるまで愛を与えることができずにいたのです。
たとえば、元妻と暮らしていたときも、相手が怒ってきたら、私も怒っていました。
憎しみの連鎖を私が断ち切るということができないでいたのです。
そんな発想すらありませんでした。
元妻と離婚したときも、自分が悪いとは思いませんでした。
元妻が心の病気だったのが悪いと思っていましたし、
私の両親も私が離婚したとき
「あのヨメは離縁しても惜しくない。フミアキは悪くない」と慰めてくれました。
それで、私は、悪いのは元妻であって、自分ではないと思っていたのです。
どんだけダメダメな男でしょうね。
そして、どんだけ甘やかされて育ったんでしょうね。
私は、スピリチュアルな勉強して、はじめて自分を反省することができたのです。
反省したとき、ハタと気づきました。
「復讐の連鎖を自分が断ち切らなければいけなかったんだ!」
「それが、ボクの今世の人生の成長テーマだったんだ!」
人生のテーマがわかると、元妻の死が、そのためのシナリオだったことがわかってきました。
シナリオには演じる役者が必要です。
元妻は、私の魂を成長させるために登場してきた役者の1人だったのです。
そう考えると、あれほど憎み合っていた元妻のことが愛おしくなってきました。
そして誓いました。
「今度、チャンスがあったら、全力で助けよう!」
「元妻のように苦しんでいる人がいたら、全身全霊でサポートしよう!」
そして、
「今度、愛する相手が見つかったら命の底から本気で愛していこう!」
そう決意するとスッキリとした晴れやかな気持ちになりました。
もっと早く、
こうした人を癒すスキルを身に着けておけばよかったなぁ
とも思いました。
そうすれば、私の結婚生活は、
もっと違ったものになったはずです。
■魂が輝きはじめると奇蹟が起こる!
人生のテーマや人生のシナリオがわかると、
それがビジネスに反映され、やりがいと生きがいが湧いてきます。
毎日が充実した日々になります。
幸せを噛みしめることができるのです。
魂が輝きはじめたような感じがしました。
魂が一番喜ぶことをしているのですから、
輝きますよね。
そんな日々を送っていると、奇蹟のようなことが次々とやってきました。
その1つが、マイさんとの出会いです。
マイさんは私が人生のすべてを捧げても悔いのない素晴らしい女性です。
心の底から愛しています。
そして、結婚しました。
他にも小さな奇蹟が毎日のように起こるのです。
その小さな奇蹟を夫婦で晩酌のときに語り合って喜び合っています。
いかがですか?
次はあなたの番ですよ!
あなたも人生のテーマを知りたいと思いませんか?
そして、自分がどんなシナリオを書いて生まれてきたのか、知りたいと思いませんか?
人生のシナリオがわかれば、
苦しい出来事の意味が理解できて楽に生きることができます。
生きるのが苦しいと感じていたり、
憎しみの連鎖に巻き込まれていたりしたら、
私のサポートが役に立つかもしれません。
誰でも、人生のテーマが見つかり、人生のシナリオが見えてくる方法があります。
さらに、人生のテーマやシナリオをビジネスに生かしていくための方法を、
12ステップで習得するメソッドを開発しました。