「フロイト心理学であなた自身を知る」
フロイトの死は、
幇助自殺といいまして、
末期がんに苦しんでいるときに、
友人医師に頼み、
過剰のモルヒネを投与してもらって死んだわけです。
無意識(潜在意識)の世界を学術的に探究したのがフロイトです。
もともと人間には、
生の衝動と死の衝動があります。
その他、
抑えつけられた衝動がたくさん潜在意識のなかに入っています。
無意識の世界には、
忘れていた感情や記憶もすべて保存されているのです。
幼児期に性的虐待を受けたトラウマも、
潜在意識に入っています。
そうした衝動や感情や記憶が、
あなたの顕在意識に出ている思考や感情に影響を与えているのです。
あなたがもしも、
いま、問題行動を起こしているとしたら、
たとえば、部屋を片付けたいのだが、なかなか片付けられないとか、
恋愛が長続きせず、次々と相手を変えてしまうとか、
いっぱいあると思います。
そうした悩みの原因は、
潜在意識のなかにあるとフロイトは言うのです。
そういう原因となるものを、
セラピストに語ることで、
抑圧されたものが解放され、
癒しのプロセスが始まると言います。
フロイトのセラピーは
クライアントに寝転がってもらい、
リラックスした状態で行います。
つまり、催眠状態になるわけです。
以下、
フロイトについて、
ウィッキペディアから引用します。
ジークムント・フロイト(1856年5月6日 – 1939年9月23日)は、
オーストリアの精神科医。
神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究を行った。
精神分析学の創始者として知られる。
1885年(29歳)、選考を経て留学奨学金が与えられたためパリへと行き、
ヒステリーの研究で有名だった神経学者ジャン=マルタン・シャルコーのもとで
催眠によるヒステリー症状の治療法を学んだ。
神経症は器質的疾患ではなく機能的疾患であるとシャルコーは説き、
フロイトはウィーン医学会での古い認識を乗り越えることとなった。
このころの彼の治療観は、のちの精神分析による根治よりも、
むしろ一時的に症状を取り除くことに向かっていた。
この治療観が、のちの除反応(独: Abreaktion)という方法論や、
催眠暗示の方法から人間の意識にはまだ知られていない強力な作用、
無意識があるのではという発想につながっていく。
1886年(30歳)、ウィーンへ帰り、
シャルコーから学んだ催眠によるヒステリーの治療法を一般開業医として実践に移した。
治療経験を重ねるうちに、治療技法にさまざまな改良を加え、
最終的にたどりついたのが自由連想法であった。
これを毎日施すことによって患者はすべてを思い出すことができるとフロイトは考え、
この治療法を精神分析(独: Psychoanalyse)と名づけた。
1889年、フロイトは催眠カタルシスか催眠暗示療法どちらをとるか迷っていたため、
催眠暗示で名高いフランスのナンシーに数週間滞在した。
この滞在で治療者としての手本と、個々に合わせた治療という技法、
催眠暗示の長所短所について意見を聞いた。
帰国した彼は、以前から交流のあった催眠カタルシスの先輩ヨーゼフ・ブロイアーと共同研究を始めた。
同時に3年ほどそれを治療にも用いて、
臨床での結果を研究材料に使った。
1895年(39歳)、フロイトは、
ヒステリーの原因は幼少期に受けた性的虐待の結果であるという病因論ならびに精神病理を発表した。
今日で言う心的外傷やPTSDの概念に通じるものである。
これに基づいて彼は、ヒステリー患者が無意識に封印した内容を、
身体症状として表出するのではなく、
回想し言語化して表出することができれば、
症状は消失する(除反応、独: Abreaktion)という治療法にたどりついた。
この治療法はお話し療法と呼ばれた。
今日の精神医学におけるナラティブセラピーの原型と考えることもできる。
1939年9月21日、末期ガンに冒されたフロイトは10年来の主治医を呼び、
「シュール君、はじめて君に診てもらった時の話をおぼえているだろうね。
いよいよもう駄目と決まった時には、君は手をかしてくれると約束してくれたね。
いまではもう苦痛だけで、なんの光明もない」と言い、
翌朝に過量のモルヒネが投与されて、
23日夜にロンドンで83歳4か月の生涯を終えた。
遺体は火葬された後、骨はマリー・ボナパルトから送られたギリシャの壺に収められ、
現在グリーン・ガーデン墓地に妻マルタと共に眠っている。
最後の日々を過ごした家は現在フロイト博物館になっている。
音声ファイルはこちらです。
https://www.dropbox.com/s/aei07cn32bg...
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