恐怖と不安を1瞬で消す5つの方法!
お金がなくなったらどうしようという恐怖。
将来どうやって生きていけばいいのかという不安。
そんな恐怖と不安に押しつぶされそうになっている人、
ぜひ「死」について学んでいただきたい。
そうすれば恐怖と不安が、1瞬で消えていく。
なぜならば、人間にとって1番の恐怖は「死」だからだ。
そして、その恐怖を予測するところから不安が生まれる。
『「生」と「死」の取り扱い説明書』(苫米地英人/)のなかから、
「死」について解説しながら
恐怖と不安を1瞬で消す5つの方法を解説しよう。
■方法1/「あなたは死なない!」ことを知ろう!
苫米地博士はこう言う。
ビルも領土も金も 「空 」だと知っていれば 、
「死」などにこだわること自体が無意味だとわかる 。
「死 」を恐れる理由の一つに 、 「自己喪失感 」というものがある 。
自分が消えてなくなってしまうことへの何とも言えない恐怖感 、
あるいは 、自分が消えた後 、宇宙はどうなるのかということへの恐怖。
恐れるとまではいかなくても 、気になるという人は多いはず 。
物理的な存在が情報的な存在に変わるだけであって 、
自我が消え去ったりはしない。
アインシュタインの相対性理論により、
質量はエネルギ ーとして表すことができる。
( E = m c ² ) 、
エネルギ ーは不変だ。
「エネルギ ー保存の法則 」
つまり、あなたが死んでも、あなたの持っていたエネルギ ーは変わらず、
形は変わっても宇宙のどこかにあり続ける。
そして 、本当は 、川だと思っていたものも 、
実は海と何ら変わらない。
川と海とはつながっているし、
多少塩分の濃度は違うけれど 、同じ水が流れている。
川と海との境目はどこかと言われても、
厳密には定義できない。
汽水と呼ばれる、
あいまいな部分があって、
何となく川が海になっていく。
こんなふうに見ていけば、
生きているときと死んでいるときの差というのは、
実は何もないのだと思えるようになるはず。
本当に、何もないのだ。

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■方法2/「生も歓喜ならば死も歓喜になる!」ことを知ろう!
苫米地博士は、仏教に造詣が深い。
ブッダのこんな逸話を紹介している。
釈迦のエピソードにこんな話がある。
釈迦が一本の若木を指さし、
「この木は生じたのか 」
と仏弟子たちに問う。
この木は何もないところから 、生まれてきたのかと問いたわけだ。
弟子たちは、
「いえ 、別の木から生じた種が地面に落ちて生えたものなので、
何もないところから 『生じた 』わけではありません 」
と言う。
「その通り。では、種は生じたのか 」
と釈迦は重ねて問う。
「いえ 、種も木からできたものですから、
何もないところから生じたわけではありません」
と答える。
次に、釈迦は枯れた木を指さし、
「この木は滅したのか 」
と尋ねる。
この木は、まったくなくなってしまったのかと聞いたわけだ。
弟子たちは、
「いえ、滅していません。
その命は種となって若木を生み、
自身は朽ちて土となり、
他の植物を育てています 」
と答える。
枯れ木とはいえ、
存在が消えてなくなったわけではない。
ただ 、形が変わっただけ。
釈迦は、
「そう。生じることもなく、滅することもない 」
と言う。
すべての存在は、生じることも、滅することもない。
そのことを知っていれば、いたずらに恐怖と不安の妄想におびえることはない。
要は生と死の間をどう過ごすかなのだ。
死ぬまで恐怖と不安におびえて生きるのも自由なら、
楽しみと歓喜のなかで生きるのも自由。
どうせ自由なら歓喜のなかで生きたほうが得だ。
そのことを肝に銘じて生きていこう!
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■方法3/「恐怖には2種類ある!」ことを知ろう!
苫米地博士は恐怖をこう分析する。
実は恐怖には
「いわれのある恐怖 」と
「いわれのない恐怖 」の2種類がある。
「恐怖する必要のある恐怖 」と
「恐怖する必要のない恐怖 」と言ってもいい。
「いわれのある恐怖 =恐怖する必要のある恐怖 」とは、
例えば 、通り魔が刃物を振り回しながら近づいてきたなど
身体に危険が迫っているような恐怖。
このとき、恐怖を感じるのは当然。
恐怖を感じるからこそ、
通り魔の恐怖からどう回避するかを考えることができる。
ですから、
こういう場合の恐怖はいわれがあり、必要がある恐怖なのだ。
これに対して、
「いわれのない恐怖 =必要のない恐怖 」とは、
例えば、明日、五〇〇万円用意できなければ、
不渡りを出して会社が倒産するというケ ースで、
「五〇〇万円用意できなかったらと思うと恐ろしくて眠れない 」
というような恐怖。
このケースでは、恐怖を感じている暇はないはず。
そんな暇があったら、
何とかして五〇〇万円用意する手立てを考えるか、
工面に奔走するしかないはず。
「どうしよう 、どうしよう 」と悩むのは時間の無駄なのだ。
つまり、
「いわれのある恐怖 」が起こったら、
危険を回避するための方策を取ること。
「いわれのない恐怖 」がやってきたら、
どうしようと悩む前に行動すること。
どっちみち、恐怖がやってきたら
「動け!」という魂からのサインだと思ったほうがいい。
■方法4/恐怖をあえて最大限にまで強めてみる!
恐怖心に打ち勝つような強い精神力はどうすれば身につくのか?
苫米地博士は、こんな方法を提案する。
私がお勧めしたい方法は、
「恐怖をあえて最大限にまで強めてみる 」というものだ。
想像でもいいし、実際に怖い体験をして強めてみてもいい。
怖いと思っていたことがさらに最悪の事態を引き起こし、
最大限に恐ろしい状況になったと仮定して、
その状況をリアルに思い浮かべてみるのだ。
そのあとで、冷静になって、その恐怖を分析する。
すると、たいていのことは何とかなることがわかる。
耐えられない状況になることはあまりない。
人が 「怖い 」と思うことというのは、
実際にはたいしたことはない場合がほとんどだ。
普段、多くの人が普通に暮らしていることを考えればわかるだろう。
耐えきれないほどとんでもない事態というのは、
人生でそうそう起きるものではないのだ。
「ゴキブリが怖い 」
というレベルから始まって、
「失恋が怖い 」
「失業が怖い 」
というよくある話や
「霊が怖い 」
「たたりが怖い 」
というオカルト系の恐怖、
あるいは
「怒られるのが怖い 」
などという恐怖もある。
「ゴキブリが怖い 」のであれば、
そのゴキブリが自分にどんな危害を加えるのか、
最大限の危害を考えてみればいいだろう。
人間がゴキブリに危害を加えることはあっても、逆はまずない。
そう考えられれば、ゴキブリを怖がる理由はないとわかり、
どんなにひどい目にあっても、
ゴキブリが自分に仕掛けてくる攻撃は
この程度だ (ゴキブリは普通 、攻撃してきませんが )と思えるようになる。
恐怖を想像の中で最大限に大きくしてみれば、
現実は必ずそれより小さいわけだ、
冷静に分析できさえすれば
「たいしたことないや 」と思えるようになる
「死ぬのが怖い 」と思ったら、
「今日のホラー映画はなかなかおもしろかった 」と思えばいい。
そう。
恐怖と不安はホラー映画のようなものなのだ!
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■方法5/「いまを楽しむ!」ようにしよう!
「過去も未来も妄想です。
あなたに与えられた時間は、いま、現在というこの一瞬だけです。
この一瞬一瞬を意識し、生きていることを実感して、
自らの選択で自らの機能を果たすこと。
それだけが死への恐怖や悩みを忘れさせ、
あなたの人生を輝かせてくれる唯一の方法なのです」
と苫米地博士は語る。
人生の目的とは何か?
釈迦にまつわるこんな話がある。
釈迦は、弟子たちとともに、北インド地方を歩き続けた。
北インドには雨季があり、道が泥沼のようになるため、
その時期だけは精舎にこもっていたのだが、
それ以外はずっと歩き続けていた 。
釈迦は布教というよりは、
自らの悟りを目指していたから、
歩き回ることに大きな意味はないはず。
もちろん 、目的地もない。
あるとき、弟子が釈迦に尋ねた。
「いったい、私たちは何のために、
どこを目指して歩いているのでしょうか」
釈迦はこう言った。
「歩くために歩いている 」
つまり、歩くことそのものが目的だというわけだ。
天台大師の教えに、
「一念三千 」というものがある。
人間の一瞬の心の中に 、現在 、過去 、未来の
すべての現象が入っているといった意味。
いま、このときの一瞬が大事なのだ。
この一瞬に命を輝かせること、楽しむこと、歓喜すること!
宇宙と自我は同じものだ。
ならば、宇宙が消えない限り、死んでも自我は消えない。
これがわかれば、自分が消えてしまうという
「自己喪失感 」は意味がないことがわかる。
もう一つの
「自己喪失感 」は「自分が無価値になる 」というもの。
それを恐れるなら、生きているうちに、
いますぐにでも価値ある機能を見つけて、
その機能を果たそう。
もしあなたが、宇宙にとって普遍的な機能を果たすことができたなら、
あなたが無価値になることはない。
その機能を見つけ、果たすチャンスは、いつ?
いまでしょ!
生きているいましかないのだ。
■まとめ
恐怖も不安も、うまく活用してみて!
恐怖や不安に足がすくんで動けなくなったら、
それは人生をムダにしているだけ。
時間がもったいない。
いまという一瞬は、いましかないからね。
恐怖と不安をうまく活用して、
行動するエネルギーに変えるのだ!
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