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小説『聖なる記憶』6

 

6、なぜ洋子の夫は離婚しないのか?

 

 その日の夜、洋子は、アメコからもらった冊子を夢中で読んだ。

いつものように、掃除も料理もせず、洗い物は流しに積み上げたままにして読んだ。

 

キッチンテーブルの上には雑多なものが山になっている。

飲みかけのペットボトルやら、つぶれたティッシュ箱やら、ビニール袋から出されないまま萎びて黒くなった人参やら、汁の上に青いカビが浮かんだカップ麺やらの間から、ノソリ、ノソリとゴキブリが出てきた。

 

洋子は無視して読んだ。

 

「なるほど、そういうことか」

 読み終えて、洋子のなかに晴れやかな感情が芽生えてきた。

「そういうことか! トラウマはきっかけであって本当の原因ではないんだ!」

 と1人の部屋で声を上げた。

 

 アメコからもらった冊子が神聖なものに思えてきた。

 

 本当の原因がわかったいま、洋子は、これを誰かに伝えたくなった。もの凄い反響が来るぞ、と思った。

 

 小冊子を、どこへ置こうかと思ったとき、ふとゴキブリが目に入った。

ゴキブリは素早く動いて姿を消した。

キッチンテーブルの上を見て、汚い、と思った。

 

 いつもなら何も感じないのだが、このときばかりは汚いと思った。

いつものようにほおっておこうか、それとも掃除しようか?

 

 洋子のなかで葛藤が生まれた。究極の選択は生か死か? 

どちらを選ぶかだ。

日常の小さな選択のなかに生と死が混在している。どちらを選んでも自由だ。 

 

 掃除のできない体ではない。55歳の大人だ。

何もできない子どもではない。

やろうと思えば、一日で片付けられるだろう。

そもそも、全部捨ててしまえばいいのだから。

 

そんなことが考えられるようになったんだなぁと冷静に客観視している自分がいることを意識できた。

 

 不思議な感覚だった。

これもヒプノセラピーのおかげかもしれない。

この冊子に書いてあるひとつひとつの言葉が洋子の魂に深く響き、洋子の閉じこもっていた殻を少しずつ壊してくれていると思った。

 

私の心の病の本当の原因がわかったら、あとは、実行するだけ。

今日から新しい人生が始まる。

洋子は、そんな晴れ晴れとした気持ちになっていた。

 

よし! 悩んでいる暇があったら行動しよう。動こう! 

 

洋子は、掃除するほうを選んだ。洋子は立ち上がりエプロンのひもをきつくむすんだ。

 

ゴミ袋にどんどん投げ込んだ。

何も考えずに捨てる。

全部捨てる。

 

新商品の試供品やどこかのお店の開店祝いなど、ビニールをやぶってもいないけど捨てる。

まだ使えると思っても捨てる。

懐かしいキャラクターグッズが出てきても感傷にひたることなく捨てる。

 

とにかく捨てるんだと思った。

 

 

捨てることで、新しく生まれ変われるような気がした。

 

 

 

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数か月か前、夫が探していて見つからなかった本が出てきた。

 

表紙に何かソースのようなものがついていて、ひどく汚れていた。

大切な本らしくて、見つからないことで夫はイライラしていた。

 

部屋が片付いていないことが原因だと言って、夫はひどく怒った。

 

「家事のことは、もう、あきらめたよ。でも、せめて、ボクの邪魔だけはしないで欲しい」

 

 大切な本が見つからない原因がすべて洋子にあるとでも言いたいのだろう。

 

夫は、自分の部屋に入り、大きな音を立ててドアを閉めた。

 

 そのことを思い出しながら洋子は、胸が締め付けられた。

 

 

 片づけをしないからといって責める夫が許せなかった。

 

腹が立った。

 

洋子だって、片付けなきゃいけないと思っているが、できないのだ。

 

それで、よけい腹が立った。

 

 

 しかし、いま、こうして片付けている。

 

ゴミを捨てている。

 

 

 そのとき洋子はあることに気づいた。

 

夫は、我慢してくれていたんだということ。

 

料理も洗濯も掃除もしないウツ病の妻と一緒に暮らしてくれたのだ。

 

なぜ、夫は洋子と離婚しなかったのだろうか?

 

やはり、世間体を気にしてのことなのだろうか? 

 

霞が関の公務員だし、真面目にレールの上を走ってきた男だから、枠から外れることができないのだろう。

 

 

そんな生き方が洋子は気に入らなかった。

 

 

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夫の実家は目白の大きな屋敷だった。

 

母方の祖父が介護施設や幼稚園、おしぼりの工場など会社をいくつも経営していて義父は婿養子となり、その1つの会社の経営者になっていた。

 

 

だから、義父は義母に頭が上がらない。何かあると義母は祖父の力を借りて義父を押さえつけていた。

 

その義母が洋子の夫をコントロールする。

 

 

母親に支配されている夫を洋子は情けなく感じた。

 

洋子たちが住んでいるマンションも義母に買ってもらったものだ。

 

おそらく、夫は、離婚すると母親に叱られるのだろう。

 

母親の許可がなければ離婚もできないのだ。

 

だから、ウツの妻との暮らしを我慢しているのに違いない。

 

 

ゴミ袋が玄関に山積みになった。

 

たまっていた洗濯物も洗濯機のなかに入れた。 

 

フローリングに掃除機をかけ、染みついた汚れは雑巾でこすった。

 

ゴミ袋をエレベーターで階下のゴミ収集所まで運んだ。

 

洗濯機が脱水を終えてブザーが鳴った。

洗濯物をベランダに干した。

 

 

いま、私は、仕事をしていると思った。

 

 

キッチンテーブルの上を布巾でふいた。

 

 

 

 

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夜10時を過ぎて夫が帰ってきた。目をみはっていた。

「どうしたの?」

 夫は黒い鞄を胸に抱いたままキッチンの椅子に座る。

 

「人間は変われるということを証明してみました」

 洋子は、おどけて笑ってみた。笑うと楽しかった。

「何があったの?」

「たぶん、私の精神に革命が起きたのね」

「スゴイ」

 夫は、どう反応していいのかわからないらしく顔をゆがめて苦笑した。

 

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど・・・」

「何?」

「どうして、こんな私との暮らしに耐えられるの? 何で、離婚しないの?」

 洋子が尋ねると、夫の顔色が急にこわばった。また、離婚だと喧嘩になると思ったのだろう。

「・・・」

 沈黙の時間が流れた。

 

「そもそも、何で、私と結婚したの?」

 責めるつもりはなかったのだが、洋子の言葉は、夫にはキツく聞こえたかもしれない。

 

 夫は、ポツリポツリと話し始めた。

「大学のゼミでキミは別格だった。スゴイ女性だなって思った」

夫は、黒い鞄をまだ胸に抱きしめている。

 

「キミの書いた論文が何かの賞の佳作に選ばれたって先生が自慢げに話していたし、

ちょっとキツい冷淡なところもあって取っつきにくい感じだったけど、尊敬できる女性だと思った。

優秀だし綺麗だし。

ボクは、内気で友だちもいないし、いつも1人ぼっちだった。

あるとき、キャンパス内のテラスでコンビニ弁当を食べていたら、

キミがそのテーブルに『ここいいか』って言って座ったんだ。

キミは小食らしくて、ペットボトルのお茶を飲み、ゲゲゲの鬼太郎のグミを食べていた」

 

「そんなこと、あったかしら」

 

「ボクは、忘れられないよ。大切な記憶だもん。

そのとき、どんな話をしたのかわからないけど、いつの間にか、『実は、今日がボクの誕生日なんだよね』と言ってしまい、

キミは『あら、そう』と言って、

グミのなかに入っていたオマケの目玉おやじのシールをボクにくれたんだ。

『じゃ、これ、プレゼント』って言ってね」

 

「あ、思い出した。私、あのころ、なぜか、ゲゲゲの鬼太郎のグミが好きでよく食べてた。

オマケのシールをノートとかに貼ってたなぁ」

 

「ボクは、そのときから、猛勉強するようになった。目標を決めて頑張った。

おかげで、大学を卒業できたし公務員試験にも合格した。

社会人になり自分に自信もついてきてキミをデートに誘った。

断られると思ったけど、あっさり承諾してくれたんでびっくりした。学生時代からの憧れだったんだよ。キミは」

 

「ホントに?」

 洋子は、聞きながら胸がキュウンときた。

 

「ホントさ。これ見てよ」

 夫は黒い鞄にいつもつけているお守り袋を鞄から外して洋子に渡した。

 

「それは、ボクのお守りなんだ。これを持っているとボクはいくらでも頑張れるし優秀になれる」夫は、恥ずかしそうに下を向いた。

「なかを開いてみて」と小さな声で言う。

 

 お守り袋を開いてみると、そこには懐かしいものが入っていた。

 

「何、これ?」

 

「うん」

 

「嘘でしょ! びっくりした!」

 洋子は、感極まって泣き出した。涙がこぼれてしかたなかった。

 

 お守り袋には、目玉おやじのシールが入っていた。

夫は、それを30年以上も大切に持っていたのだ。