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小説『聖なる記憶』5

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5、そもそも愛って何?

 

 洋子は両親にもっと愛されたかった。抱いてもらいたかった。優しくしてもらいたかった。もっと大切に扱ってもらいたかった。

 しかし、現実は違っていた。母は幼い洋子を殴ったし厳しい言葉でののしった。

3人の父たちも洋子に愛をそそいではくれなかった。

 洋子は、傷つくことを恐れていつもビクビクしていた。母の顔色をうかがいながら暮らした。

そして、自分にも他人にも批判的な性格になっていった。あそこがダメ、ここがダメ、世の中ダメな奴ばっかり。

細かい欠点を見つけては批判する。

 

祖父母の家で暮らすようになると、古い家の匂いがダメだったし、薄暗い部屋がダメだった。

祖父の加齢臭もダメだったし、祖母の作る料理がダメだった。

 

見ているとイライラしてきてしょうがなかった。

ダメだからといって幼い洋子が口に出して言えるものではない。

だから、黙っていた。

祖父母たちになじめず毎日、孤独を感じていた。

 

何かあると不機嫌になった。気に入らないことがあると1週間も2週間も口をきかなかった。

祖父母に小学校へ来てもらいたくなかったので行事の案内を渡さなかったし、聞かれたら適当に嘘をついた。

 

押し入れに閉じこもることもあった。

やり場のない怒りにキーっとなって祖父母を睨みつけていた。

祖母の腹を「クソっ! クソっ!」と言いながら殴ったこともある。

自分も批判した。自分はダメな子なんだ、他の子よりも劣っている、何をやってもうまくいくわけがないと思っていた。

 

 

 3つめに浮かんできた記憶に、この祖母が出てきた。洋子が小学3年生のときだ。

 祖母は泣いていた。

 

「殴りたかったら、殴りな。いくらでも気のすむまで殴りな」

 洋子は、泣きながら小さな手で祖母の腹を殴った。

 

「クソっ! クソっ!」

 何に腹を立てているのか、わからなかった。

ただ無性に腹が立ってしょうがなかった。

洋子の目から大粒の涙がポロポロとこぼれた。殴るのをやめた。

 

 すると、祖母がギュウっと抱きしめてくれた。

温かいものが全身に流れていくようだった。

信号機の色が変わるように洋子の心が変わったような気がした。

 

「洋子、おばあちゃんは洋子のこと、愛してるよ。何があっても、おばあちゃんは、洋子の味方だからね」

 そう言って、祖母は抱きしめていた腕に力を入れる。

 

 ギュウっと絞めつけられる感覚が心地よかった。温かかった。

 

 次の瞬間、抱きしめられた感覚だけを残して祖母の姿はスウっと消えていく。

 

 

 洋子が小さいころ、大好きでいつも枕元に置いていたパンダのぬいぐるみがあらわれた。イメージのスクリーンでは、命を授けられたパンダのぬいぐるみがイキイキとした瞳で洋子を見つめる。

 パンダのぬいぐるみが、洋子にこんなことを言った。

「あなたは愛されています。愛される価値のある人間です。愛されていることに気づきなさい」

 パンダからのメッセージだった。

 このメッセージを受け取り、洋子は催眠から目が覚めた。

 

 

 

 

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「いかがでございましたか?」

 アメコは大きな瞳でまっすぐに見つめて言う。

 

「パンダのぬいぐるみが出てきたのには、びっくりしました」

「それをハイヤーセルフと言います。

ハイヤーセルフはさまざまな形をしてあらわれます。

ときには神さまとしてあらわれることもあります。

しかし、つまるとことは、高次元の自分が自分にメッセージを与えているのです。

その存在がハイヤーセルフなのでございます」

 

「私は愛されているんですね」

 洋子はリクライニングソファーに横になったまま、ハンカチで目頭をふいていた。

まだまだ涙があふれてきた。

催眠状態になると違った考えを受け入れやすくなる。

 

いままで、自分は愛されていないと思っていたのだが、実は、いろんな人たちに愛されていたのだという考えを洋子は、いまなら受け入れることができるかもしれない。

 

「神さまに愛されているから肉体を持つことができたのです。

そもそも、神さまに愛されていなかったら、この世に生まれてくることができないのでございます」

 

「愛って何ですか?」

 

「愛という言葉は非常に曖昧でとらえどころのないものです。

人によって解釈も千差万別です。

いつくしみ合う心のことだという人もいれば、万物への思いやりだという人もおられます。

温かい感情だという人もおられます」

 

「何が本当なの?」

 

「僭越ながら、わたくしが考える愛の解釈を述べさせていただきます。

ビッグバンによって宇宙が誕生したとき、無から有を生み出そうと願う意識があったのだと考える方々がおられます。

わたくしも、その意見に賛成の立場をとらさせていただいております。

同時に、ビッグバン以前の『無』に戻ろうとする意識もあって、この両者が常に葛藤しているのが、この宇宙なのでございます。

 

両者はお互いを必要としています。

『無』に戻ろうとする意識があるから『有』の存在が証明できますし、『死』に向かう意識があるから『生』に向かう意識の素晴らしさが理解できるのです。

障害があるから大きく成長できる、肉体に負荷をかけるから筋肉が強くたくましくなるのと同じです。

この生み出そうと願う意識、『有』や『生』へ向かう意識こそが神さまであり、愛なのだと思うのでございます。

逆に『無』や『死』に向かう意識を悪魔と便宜上呼んでおりますが、実は、この悪魔も、神さまや愛の一部ではないのかと思うのです」

 

「わからなくなってきましたねぇ」

 

 

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「この世の中のモノはすべて、愛という意識が作り出したものです。

いま斉藤さまが横たわっておられるソファーも職人さまが愛情を込めて作ったものですし、私が着ている服も誰かの愛でできています。

植物が育つのも、大地や太陽や空気の愛情をいっぱい受けて成長するのです。

そう考えると、この宇宙はすべて愛でできているのでございます」

 

「なるほどね。そういうことね。

そう考えると、親に愛されないで育ったとか、愛を受け取っていないとか、誰からも愛されていないとか、ウジウジ考えるのがバカらしくなるわね」

「さようでございます。そもそも、わたくしたちの、この肉体も愛でできているのですから」

 アメコは無表情で冷静に言う。

 

 洋子は催眠時にたくさん泣いたせいか、すっきりとした気持ちだった。

「ひとつ、聞いていい?」

「はい。何なりとおっしゃってください」

「トラウマはきっかけであって、本当の原因ではないと言ってましたよね。もし、そうだとすると本当の原因は何なの?」

 

「ヒプノセラピーのセッションを何度か受けられた斉藤さまなら、その答えをすでに気づいておられるのではございませんか。

それを、ここで、ご説明申し上げるのは、やぶさかではございませんが、残念ながらお時間が足りないようでございます。

斉藤さまが抱えておられる精神上の問題を解決する方法と、その理論を小冊子にまとめておきましたので、ご自宅で、これをお読みになっていただければ幸いです。このなかにすべてを書き記しております」

 そう言って、アメコは文庫本サイズの冊子を洋子に渡した。

 

「ありがとうございます」

 洋子は、それを受け取った。

「他に、ご質問はありますでしょうか?」

「そうね。その頭、気になってしょうがないんだけど、何で、尼僧みたいに剃ってるの?」

 洋子は率直に尋ねた。頭のことは、何度もしつこく聞くつもりでいた。

 

「ああ、これでございますか?」アメコは自分の頭に手をやり「これは、単に、手入れが楽だから、こうしているだけでございます」と言った。

 

 

「ふうん。でも、女を捨ててしまった、覚悟のようなものを感じるんだけど、私の思い違いかしら?」

「思い違いかと存じます」

 アメコは目を閉じて軽くお辞儀した。時間がきたので、これで終わりだという合図だった。

 

 何かきっかけがあって、頭を剃ったのに違いないと思ったが、口にしなかった。どんなきっかけがあったのだろう?

 

 洋子は冊子をバッグにしまい、セラピールームを出た。