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小説『聖なる記憶』3

3、洋子を苦しめている本当の原因とは?

 

 洋子は、これで3度めのセッションになる。

個人セッションを受けるたびに、より深い催眠に入っていくような気がした。

 

覚醒状態の脳波はベータ波(通常時)とガンマ波(興奮時)とがある。

目を閉じて安静にし心身ともにリラックスした状態だと脳波はアルファ波になる。より深くリラックスするとシータ波となる。熟睡するとデルタ波。

 

 催眠状態の脳波は、アルファ波からデルタ波を行ったり来たりしている。

そのとき、意識はちゃんとある。おぼろげながらも、ちゃんと会話ができる。

催眠状態のことを「左脳が眠って、右脳だけが起きている状態だ」という学者もいる。

顕在意識が静かになり、潜在意識が優位になっているという学者もいるし、顕在意識と潜在意識の境界をつくるクリティカルファクターが開いている状態だと主張する者もいる。

 

 

 いずれにしても、催眠状態は特殊な状態だ。

その特殊な状態の特殊な性質を活用して病を治したり、願望を達成したりするのがヒプノセラピーである。

 

特殊な性質というのは、催眠状態になると「無痛になる」「忘れていた記憶が蘇る」「暗示がかかりやすくなる」といったことだ。

 

 洋子は、ここ数か月の間にそうしたことを調べた。

できれば、自分もこういう仕事がしてみたいと思った。それで、ブログのペンネームに「スピリチュアルヒーラー@Reina」とした。

 

 それも、すべてアメコからヒプノセラピーの個人セッションを受けてからのことだ。

最初のセッションは衝撃的だった。

 

すっかり忘れていた父との思い出が次々と湧き上がってきたのだ。

小学5年生のとき、父とはじめて2人きりで食事したお店の名前など完全に忘れていたのだが、ヒプノセラピーのセッション中に急に思い出した。「洋食屋文明軒」という店名だった。

 

そこで何を食べたのかなんてすっかり忘れていたが「タンシチュー」だったことを思い出した。

幼い自分には食べきれるものではなかったので、半分以上は父が食べたことまで思い出した。

思い出した瞬間、涙があふれてきた。

 

涙を大量に流したことで心も体も浄化されたような気がした。

 

そんな体験をしてから洋子は、「ヒプノセラピーってスゴイなぁ」と思ったのだ。

 

 

 

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「その後はいかがでございましょうか?」

 アメコは、英国の一流執事のような口ぶりで言った。この口調がアメコの日常だった。

 

「自分でもびっくりしてます。体調がよくなり、日に日にウツが改善されている感じがします」

「体調がよくなったというのは、数値にすると何パーセントくらいでございましょうか?」

「そうですね。60パーセントくらいでしょうか」

「じゃ、あと40パーセントでございますね。今日は、その40パーセントを30パーセントまで減らしていきたいと思いますが、いかがでございましょう?」

「はい。お願いします」

 洋子は、そう言い、リクライニングソファーに深々と体を沈めた。

 

「これで3回目ですから、今日は、かなり深い催眠状態に入っていくことができると存じます」

 アメコが大きな瞳で洋子を見つめる。尼僧のように剃った頭が、蛍光灯の光でテカテカしていた。

 

「よろしくお願いします」

 

「斉藤さまは、いままで家事をしなくても許されていました。しかし、それが、もしもウツが完全に治ってしまったら許されなくなる可能性がございます。もしかしたら、仕事もしなければいけなくなります。大丈夫でございますか?」

 アメコは、冷静な低音で話す。

 

「どうでしょうか? 家事も仕事もできればやりたくないです」

 洋子はリクライニングソファーの上でリラックスしている。

 

「どういたしましょう? それでも、ウツを治したいですか?」

 

「よく、わかりません」 

 

「子どものころは誰かに守られていますから家事も仕事もする必要はございません。

しかし、大人になるにしたがって家事や仕事をしなければいけなくなります。

そのプロセスでいくつかの心理的課題をクリアしなければいけないのです。

そのひとつが『守られる側から、守る側』への転換です。

 

いままで通り守られる側にずっといることもできますし、今日から守る側に立つこともできます。

斉藤さまはお子さまがいませんから、誰かを守るということはないかもしれませんが、家を守るという意識を持つこともできます。

守られる側のままとどまるか、守る側へと成長するか? どちらを選ばれますか?」

 

「どちらも選べないです」

 洋子は少し息苦しさを感じた。守られる側から守る側に転換しなきゃいけないことはわかっている。

 

しかし、それがなかなか出来なくて困っているのだ。

まだまだ子どもでいたいと思い続けているということかもしれない。

 

50を過ぎた大人がねぇ、と思った。

 

 

 

 

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「守られる側に居続けることは、大人にならずに子どものまま生きることでございます。

家事も仕事もせず、ご主人に不平を言われ、ウツを背負って生活することを意味します。

一方、守る側になるには、いままで出来なかった家事に挑戦しなければいけません。

仕事にも取り組む必要があるでしょう。ときにはやりたくないこともやらなければいけないかもしれません。

 

しかし、出来なかったことが出来るようになることは、嬉しいことですし成長したことになります。

自転車に乗れるようになったときのことを思い出してみてください。どのくらい練習されましたでしょうか?」

 

「私、なかなか乗れるようになれなくて、何度もコケて、泣き出して、一度、あきらめてしまったんです。

でも、2・3年して、少し大きくなって友だちがみんな乗ってるのを見て、ああ、私も自転車に乗りたいなぁって思って、もう一度チャレンジしてみたら、すんなり乗れたんです。不思議な気持ちでした」

 

 

「少し大人に成長したわけですね。他にも、出来なかったことが出来るようになったことを斉藤さまはいくつも経験して大人へと成長しました。

しかし、いつの間にか、ウツというヨロイを身にまとわなければ生きていけなくなったようでございます。

このヨロイをはじめて身につけてしまったのはいつだと思われますか?」

 

「たぶん、中学生のころだったと思います」

 

「そのとき、何があったのでございましょう?」

 

「お父さんが・・・」

 洋子は、友人たちに何度か自分のトラウマを話したことがある。

中学のころ、父親が好奇な目で自分を見ていることに気づいたのだ。

 

あのとき以降、父が大嫌いになった。父の体から発する加齢臭も嫌だった。

実家では、父と母が2人で暮らしている。何度も離婚すると言っていたが、その後、どうなったのかはわからない。

20年以上も連絡していなかった。

 

「それがいまだにトラウマになっているんです」

 

「そのトラウマが原因だと思っておられるのですね?」

 

「はい」

 

「トラウマがきっかけになったことはたしかですが、そのトラウマが本当の原因ではありません。

もしも、トラウマが原因ならば、同じような体験をした人は全員ウツにならなければいけませんが、実際には、多くの人はウツにならずに正常な生活をしておられます。

同じ体験をしたのに、ウツになる人とならない人がいるのは、どこに違いがあると思われますか?」

 

「さあ?」

 

「少し考えてみてくださいませ。その違いが本当の原因でございます。

その本当の原因をつきとめれば悩みは解決します。いままで苦しめていたウツともさようならできます。

大人になる第一歩を踏み出すこともできますし、守る側への転換もスムーズにできるでしょう。

いろんなことにチャレンジするための活力が生まれ、イキイキと生活できます。

 

いかがですか? その本当の原因を知りたいですか?」

 

「知りたいです」

 

「承知しました。それでは、催眠に入っていきましょう」

 

 

つづく