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小説『聖なる記憶』2

2、なぜヒプノセラピーで奇蹟が起こるのか?

 

 斉藤洋子は、不思議でならなかった。長年ウツで苦しんでいたのに、それがわずか3時間のセッションですっかり回復したのだ。

 

自律神経失調症で何となく気が重かったり、息苦しいときがあったり、

寝ても寝足りない感じがしたりしていたのだが、セッション後はスッキリと快眠快便となった。

 

日に日によくなっている。

 

メンタルクリニックでもらっていた薬もいまでは一錠も飲んでいない。

気持ちも前向きになり活力が出てきたようにも感じる。

 

 それまでは、世の中が地獄のように感じていた。

いつまでも続く苦しみ、いつまでも続く不安、そして恐怖。毎日が地獄に感じた。

 

「焦らず、気長に、一生付き合うつもりで治していきましょう」と医者に言われ、なかばあきらめていたのかもしれない。

 

医者に言われるままに薬を飲んだ。

グループ療法も欠かさず出席した。

 

医者がススメるものは、何でも購入した。

マイナスイオン発生器やら、電位治療器やら、低反発マットやら、高価なものを買いまくった。

 

そのたびに、3つ年下の旦那は渋々と貯金を崩してくれた。

子どもがいないので養育費は必要ないものの洋子の医療費はかなりの負担だった。

 

旦那が霞が関の公務員をしているおかげで生活は安定しているが、

家事を一切しようとしない洋子に対する旦那の不満はつのるいっぽうだった。

 

「誰のおかげで生活できると思ってるんだよ。君も協力して欲しい。少しは家のことを考えてくれないか」

 旦那は怒りを押し殺しながら言う。

「でなきゃ、出て行って欲しい」

 そんな言葉を言う旦那の心から洋子に対する愛を見つけることができなかった。

 

 離婚も考えた。

 

いざ、「離婚したい」と言うと、旦那のほうが折れて「君は1人では生きていけないだろ」と言う。

 

それに、よくよく考えれば洋子が1人で暮らせるはずがなかった。

いま離婚すると生活できないので、いつも離婚の話はうやむやになる。

 

根はやさしい旦那なので、ブツブツ怒りながらも許してくれた。

 

「ウツ病だからしょうがないか」

 と旦那もあきらめてくれる。

 

「早く治してくれよ」

 と表面上は旦那もウツの治療に協力してくれた。

 

 最初はウツを治すためなら何でもやってやろうという気持ちだったが、なかなか治らなかった。

薬を飲むとよけい悪化するように感じた。

 

ところが、ヒプノセラピーを受けたとき何をやっても治らなかったウツが、スッキリしたのである。

 

まるで奇蹟のようだった。

 

 いったいこれはどういうことなんだろう?

 

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 洋子の好奇心はこの疑問の虜になっていた。

喧嘩するたびに旦那が「出て行ってくれないか」と言ってくることも、

部屋のなかがゴミだらけになっていることも、最近自分のブログに変な書き込みがあることも、どうでもいいと思った。

 

そんなことよりも、なぜヒプノセラピーで奇蹟が起こるのかが重要な問題のように思えた。

 

 それが知りたくて、毎日のようにその店へ通った。

 

自宅マンションから歩いて10分ほどの場所にある。10階建ての古いビルの2階だった。

1階にはテイクアウト専門の海鮮丼の店と、ラーメン屋、中華料理屋、すし屋、そば屋などが肩を寄せ合って並んでいる。

どの店もお客はさほど入っていない。

ちゃんと家賃が支払えているのかなぁと心配になるくらいだった。

 

 背の高いスラリとした女性が、玄関口の立て看板の前を行ったり来たりしている。

2階のお店に入りたいけど入れずに迷っているような感じだった。

 

年齢は20代後半だろうか。横顔をチラリと見たかぎりでは、かなりの美人のようだ。

肩をむき出しにした肌は透き通るほど白かった。

6月の夕風がうすいワンピースの裾を揺らしていた。

 

「この店、気になるの?」

 洋子はワンピース女子にうしろから声をかけた。

「あ、いえ」

 ワンピース女子はたじろいで逃げようとする。

 

「ちょっと待って、私も、これから、この店に入るところなの。一緒に行きましょ?」

「え?」

 洋子は、ワンピース女子を逃がさないように腕をしっかりとつかむ。

 

「さ、行きましょう」

 階段を上がり、木目のドアを開ける。

 

 

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 店の雰囲気はバリ島をイメージさせる。

入り口ではゾウの神さまのガネーシャが両端に2体、お出迎えしている。

店内はブラウンの色調で、薄布が天井から垂れ下がっている。

照明は落としてあり、眠気を誘う薄暗さだった。

 

木製の丸テーブルが大小6つ。

ゆったりと座れる籐椅子にアジアンクッションが敷いてあり、座り心地がよさそうだった。

 

 バリの民族音楽とともにアロマの香りが流れてくる。

 

 広い店内にお客が2人。1人のお客は籐椅子に深く沈み込んで瞑想しているようだ。

もう1人は、スタッフの高村舞子がハンドマッサージをしていた。

 

 洋子とワンピース女子は、大きめの丸テーブルを囲んで座った。

 

「あなた、お名前は?」

 洋子が尋ねる。

 

「礼子です。市川礼子」

「私は斉藤洋子。よろしく」

 洋子はニコリと笑った。

 

礼子は、テーブルの上のメニューの文字を目で追いかけている。

値段はいくらなのか、何十分のコースがあるのか、この店のシステムを調べようとしているのだろう。

 

「ドリンクはコーヒーと紅茶とオレンジジュースしかない。フードメニューはない。

ドリンク代は少し高めだけど、そのぶん、ハンドマッサージがついてるし、マッサージしている間にいろいろとカウンセリングしてくれる。

考えようによっちゃぁ、かなり安い」

 

「そうなんですか」

 礼子は力なくうなずいた。

 

「あそこでハンドマッサージしているのが、お店のスタッフの舞子さん。

そして、あそこのドアの向こうが個室になっていて、その部屋がヒプノルーム」

 洋子はそういって個室を指さした。

 

「ヒプノルーム?」

 

「ヒプノセラピーってはじめて?」

 

「はい。やったことないです」

 

「催眠療法のことなんだけど、やってみるといいよ。人生がガラリと変わるから。

アメリカの医師会はその有効性を認めていて、精神科医の必須カリキュラムになっているそうよ」

 

「へえ」

 

「催眠状態というのは、目が覚めているときと眠っているときの中間みたいなものだけど、これは特殊な状態なのね。

たとえば、痛みを感じなくなったり、忘れていた記憶を思い出したり、暗示にかかりやすくなったりする」

 

 洋子は、この店で借りた本やインターネットで仕入れた情報を話す。

 

 

 18世紀のドイツの医者メスメルは、催眠によって麻酔なしで手術をしている。

イギリスのキャサリン妃は、ヒプノセラピーによって無痛分娩している。

催眠によって痛みが軽減されることは多くの症例によって証明されている。

 

 なぜ催眠で痛みが消えるのか科学的な研究によるあきらかな論拠はない。

 

おそらく、痛くないと信じることによって脳内モルヒネと呼ばれる神経伝達物質のエンドルフィンが分泌されるからだろうということだ。

 

プラシーボ効果というものがある。

ニセの薬でも、ガンが治ると信じて飲めば本当にガンが治るというものだ。

 

人間にはもともと自然に治癒する力があるので、自分で自分を癒すことができるのだが、

そのときニセの薬があることで、その力が引き出せる。

 

 実はウツ病も、ニセの薬で完治したという事例がある。

 

この事例は、製薬会社や医療関係者らにはとうてい認められることではない。

なぜならば、多大な損害をこうむるからだ。

 

そんなニュースが公開されたら大量に薬を飲んでくれる患者を失うことになるだろう。

 

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「どう、ヒプノセラピーってスゴイでしょ?」

 洋子は自分のことのように自慢する。

 

 そのとき、舞子が注文を取りに来た。

「ドリンクは何にします?」

 

「私は個人セッションを予約しているので、セッションのあとにお願いします」

 洋子はそう言い、個室のほうへ目を向けた。

 

洋子は毎月ヒプノセラピーの個人セッションを受けている。

 

「そう。じゃ、そちらのかたは?」

 舞子は礼子に声をかける。

 

「あ、どうしよう。じゃ、コーヒーを」

 礼子は慌てて言った。

 

 そのとき、ヒプノルームのドアが開き、中年の女性が出てきて、個室のなかへ向かってお辞儀した。

先客の個人セッションが終わったようだ。

 

 個室からスリムな女性が出てきた。

 

髪の毛はカミソリで剃ってあり、尼僧のような頭をしていた。

白いボタンダウンのシャツに足にぴったり張り付いた黒のスキニーパンツをはいている。

 

 凛とした存在感があった。

 

名前は音無アメコという。

22歳の若さでこの店のオーナーだった。

 

化粧はまったくしていない。

 

普通の女の子みたいにメイクして髪も伸ばしてパーマでもかければ可愛くなってモテるはずなのに。

目は大きくて肌は白く、よく見ると端正な顔立ちをしている。

 

もったいないなぁというのがはじめてあったときの印象だった。

 

「あ、終わったみたい」

 洋子は、そう言って席を立ち、ヒプノルームへ向かった。