小説『3年9カ月』


「3年9ヶ月」


 久子は書籍制作部に所属する契約社員である。書籍の編集を担当している。

 

3月で契約が切れるが、更新はないことを総務から言い渡された。その直後に直属の浦山部長から、「担当している書籍の編集はこちらで継続します。資料を一纏めにしておいてください」と言われ編集を中断した。

 

 久子には有給休暇が残っていなかったが、会社と相談して休みを取ることにした。それが部長には気に入らないようである。

 

 4日後、取り上げられた仕事が戻ってきた。3月中に完了することは不可能であった。
 久子は区切りの良いところで休みを取ることにし、会社側にも納得してもらった。部長が確認に来た。

 

「これでいいのね」

久子より3つ年上の女性部長である。

 

「区切りが良いところなので」

と久子。

 

 江東区晴海にある小さなオフィスビルに夕日がさしていた。二人は部屋を出て会議室へ向かった。

 

 同僚達は、4月下版の書籍の編集で忙しかったが、顔を上げて好奇の目で二人を見る。部長は面白くない顔をして先に立って歩いている。久子は考え事をしながらついて行く。

 

 二人が会議室に入ると空気が変わった。
「座って」

と部長。

 

 なにもいわずに久子が座る。
 咎めるように部長

「なぜ、事前に相談してくれなかったの?」
「休暇の件については、会社側が了解しています。部長も確認していると思いますが」

と久子。

 

「自分の都合しか考えていないと思うけど」
「3月中旬で、区切りがつくと思っています」
「それが身勝手なのです。完了するわけではないでしょ」
「区切りの良いところでと思いました」
「なら、相談してよ」
「相談に乗ってくれましたか?」
「相談してみなければわからないでしょう」
「相談に乗ってくれたとは思えません。そんな関係築けていなかったでしょ」

 久子は日頃思っていたことを口にしてしまった。
「そう思っていたの?」
「・・・」

 

 久子は折れた。

「ダメなら休みを取らずに続けます」
「もういい、結構です」

 と部長は声を荒げた。

 

 そうなのである。久子は部長とはこのところうまくいっていなかったのである。

 久子は編集を専門にしてきたわけではなかった。そのことも気に入らない要因のひとつだった。部長は常にスケープゴートを作っておかないと精神の安定が保てない人であるらしい。

 

「今までにも犠牲になった人がいる」

 との噂もある。

 

 しかし部長は優秀な女性ではある。会社としてはまだ手放したくない人材なのだ。代わりをできる人間も居なかった。

 

 金曜日、部の定例会議があった。
「久子さんは来週の月曜日が最終出社日になります」
「今日と月曜日ですべて引き継ぎを済ませてください」

 部長からの急な申し出である。

 

 あれ?と久子は思った。

「総務の方からは、今月末までじゃなかったのですか?」
「出社しなくて結構です。何しに来るの」

 と部長。

 

 刺のある言い方である。
 久子にとって女性の上司は初めてであり、長年技術職にあり女性の多い職場も初めてである。女性の多い職場での気遣いに欠けていたのかもしれなかった。

 

 最後まで部長との関係は修復されなかった。

 会議の最後に花束と記念品の贈呈があった。
 今月末には制作部員と研究部の先生方が送別会をしてくれることになっていたが、部長の一言で送別会は取りやめになった。

 

 見事な報復ぶりである。久子は同僚とはうまくやっていたと思っていたが、部長に逆らってまでと思う人は居なかったのである。

 

 花束と記念品をゴミ箱に捨てて帰ろうと思ったが、諦めた。

 

「今更物にあたっても仕方がない」

 

 かくして、久子の出向から始まった株式会社Iでの専門書籍編集の3年9ヶ月は終わったのである。何冊かの奥付の編集者欄に名前も載った。

 

「編集は素人だったけれど、よく頑張ったね」と自分を褒めたい気持ちであった。出社最終日には胸を張って出ていこう。

 

 研究部の山岡先生がオフィス近くの「魚休」で昼食をご馳走してくれ、

「送別会無くなっちゃったの、楽しみにしていたのに」

 と残念がった。

 

 後日別部署の有志が送別会を開いてくれた。部長とはうまくいかず他部署へ移った海野さんと前山さんも参加してくれた。

 

(了)