小説『酋長と僕』


『酋長と僕』

 

甲田希一

 

 

 

 僕はドアを開けた。三畳にも満たない狭い部屋。壁といい真ん中に置かれた机の椅子といい、中は白一色だ。机の上の灰皿には煙草の吸殻が三本。四本目の煙草は、椅子に座る男が咥えている。

 そいつが僕を呼び出した男、僕が参加している劇団のトップだ。年齢は四十六になる。スキンヘッドに顎と鼻の下に髭を生やした強面、アロハシャツの上に色落ちした青のジージャンを重ねる独自のファッション。ネイティブなスタイルを心がけているという彼は、周りに“酋長”と呼ばせている。
 僕は睨みたい思いを抑えてカーキ色のコートを脱ぎ椅子にかけてから座った。この狭苦しい部屋にいるのは僕と酋長だけだ。

酋長がコーヒー飲むかと聞いた。酋長のカップから漂うコーヒーの匂いは香ばしかったが、僕は断った。一刻も早くこの場から立ち去りたい。

 時間は午前十一時。いつもなら会社で仕事をしている時間だ。昨日酋長からの電話がなければ今日だってそのはずだった。酋長は電話で俺の仕事場まで来いと言った。会社での仕事があった僕は当然のように断った。

 僕は雑誌の編集部に勤めている。大きなプロジェクトのリーダーを任され忙しい毎日を送っている。毎日五時間以上の残業をしてそれでも仕事はたまる一方で最近では終電の時間ギリギリまで職場で働いている。酋長の仕事場に寄っている場合ではないのだ。
 しかし酋長は僕の言い分を聞きいれてくれず、必ず来いと言った。来なければ劇団をクビにするという脅し文句を添えて。そう言われては断るわけにいかない。翌朝、僕は会社に体調を崩したから病院に行くと電話で嘘を伝えて、酋長の仕事場にやってきたのである。
「一体、何の用事ですか、仕事が忙しいっていうのに」
「だから呼んだんだ。俺の目から見て、キイチはもう限界を超えている。これはドクターストップだ。今日一日は休め」
「僕はまだまだやれます。そりゃ疲れてはいるけどこの仕事をやりとげたいんです」
「だから今日は休め」
「でも休んだら仕事がさらにたまります。今だって遅れているのに」
「仕事なんてものはなんとかなるもんだ」
 沈黙が続き、僕は上目遣いに壁時計を見た。十一時五分。編集部ではプロジェクトのページの再校のゲラが出ている時間だ。計十六ページをコピーしてデスクたちに渡す必要があった。今戻ればまだ致命的な遅れにはならない。
 酋長の視線に僕は気づいてどきっとした。酋長が立ち上がり背を向けて壁時計に手をやる。壁から外し裏返しにして机の上に置いた。酋長は時計を押さえつけたまま僕を睨むように見て言った。
「今日一日は時間を忘れろ」
 僕は息を飲んだ。見下ろす彼の目に気圧され、僕は黙って頷いた。酋長は何を言っても自分の考えを曲げない人だったことを僕は思い出す。

もうどうにでもなれだ・・・。

 酋長から解放され編集部に着いたのは、午後の二時過ぎだった。僕はドアを開け自分の机にそっと向かった。机の上にはゲラが束で置かれてあった。

 コピーしようとゲラを手にすると、僕の前に沢村先輩が来た。先輩にはプロジェクトで何度も相談に乗ってもらっていた。頼もしい存在だが、仕事に対して編集部の誰よりも厳しい人だ。体調管理がなってないって怒られるんじゃないかと僕は身構えた。でも沢村先輩は「体は大丈夫か?」と心配そうに声をかけてくれた。

「はい」

 僕は目を伏せた。午後からの出勤、しかも仮病なだけに後ろめたい気持ちでいっぱいだった。

「ゲラのコピーしておいたよ。デスクたちに渡しといたから」
僕は顔を上げて、お礼を言った。

「今日くらいはのんびり仕事しとけよ」

先輩は僕の肩をぽんと叩いて踵を返した。僕は先輩の背中に向けてお辞儀をした。僕は椅子に座り、パソコンの電源を入れて起動を待つ。隣の席からは香ばしいコーヒーの匂いがする。

今度こそ飲もうかな。

僕は立ち上がり、ポットのお湯に再沸騰をかけて待つ。その間、僕はスキンヘッドで髭を生やした強面の顔を思い浮かべていた。

 

(了)