この本の情報量は凄まじいです。
605頁という厚みのあるなかに、
何百という参考文献から抽出した情報が、
たっぷりと書いてあります。
『逝きし世の面影』(渡辺京二/平凡社)
幕末に多くの欧米人が日本にやってきました。
その欧米人を驚かせた日本人とはいったい、
どのような人々だったのか、
来日した欧米人たちの書き残した文献をもとに、
書き起こしたのが本書です。
つまり、
欧米人から見た当時の日本人像というものが描かれています。
日米修好通商条約を結びにやってきたハリスの日記に、
こんな言葉があります。
「厳粛な反省、変化の前兆、疑いもなく新しい時代が始まる。
あえて問う。日本の真の幸福となるだろうか」
古き良き日本の文化を、
自分たちが破壊してしまうのではないかという予感を、
ハリスは日記に書いているのです。
ハリスが下田近郊の柿崎を訪れたときに、
そこでの感想を次のように書き残しています。
「柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、
住民の身なりはさっぱりしていて、
態度は丁寧である。
世界のあらゆる国で
貧乏にいつも付き物になっている
不潔さというものが、
少しも見られない。
彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている」
当時の日本人はとにかく陽気で、
外国人に対しても、
人懐っこく親切に接したようです。
スイスのアンベールがこう書き残しています。
「みんな善良な人たちで、
私に出会うと親愛の情をこめたあいさつをし、
子どもたちは、
真珠色の貝を持ってきてくれ、
女たちは、
籠のなかに山のように入れてある
海の無気味な小さい怪物を、
どう料理したらいいか説明するのに、
一生懸命になる。
根が親切と真心は、
日本の社会の下層階級全体の特徴である」
通りがかりに休もうとする外国人は、
ほとんど例外なく歓待され、
「おはよう」という気持ちのいい挨拶を受けました。
この挨拶は、
道で会う人、
野良で働く人、
あるいは村人たちから、
たえず受けるものだったと、
外国人は驚嘆したそうです。
現代の日本人は、
挨拶しなくなりましたね~~。
他にも、
酔っ払って、
民家に入り込んで眠ってしまった外国人がいたそうです。
翌朝、
その民家の家族たちが起きてきて、
一緒に朝ごはんを食べたという記述も本書にありました。
ペリー艦隊の随員としてやってきた画家のハイネが、
下田で日本人女性たちの歓待を受けます。
ハイネは図に乗って、
女性たちの着物をいじり、
顎をさわったり、頬をつねったり、
ふざけたのです。
すると、
そこに同席した、
親族や代官、武士らが、
声を合わせて大爆笑したといいます。
ハイネが無邪気に楽しむ様子が、
日本人には嬉しかったみたいです。
女性たちも、
ハイネの悪ふざけに一緒に笑い楽しんだと書いてありました。
当時の日本人の好奇心は無邪気でおおらかだったようです。
メキシコの天文学者のディアスは、
横浜で出会った娘に、
服や手袋や、刀や時計を調べられ、
しまいには髭まで触られたと書いています。
スイスの女性バードは、
1人で東北を旅しました。
会津高田では、群衆が宿をとりまき、
隣家の屋根にのぼり、
バードを見物にやってきたというのです。
子どもたちは塀によじのぼって、
塀を押し倒してしまったといいます。
坂下では、
バードを見ようと集まった見物人たちが、
2千人もいたといいますから驚きです。
当時の日本人は、
もの珍しそうに外人の女性を観たのでしょう。
バードが望遠鏡を取り出すと、
銃と間違えた日本人たちが、
慌てて潰走したといいます。
秋田県湯沢では、
見物人がのぼった隣家の屋根が落ちたというのです。
神宮寺に泊まったときには、
見物人たちのせいで、
夜中に目が覚めました。
起きてみると、
バードの部屋に
約40人の男女がいたのです。
部屋の障子は取り外されていて、
日本の男女が、
黙ってバードの寝姿に見入っていたといいます。
なんと、
愛すべき人々でしょうか。
バードさんはびっくりしたでしょうね。
当時の日本人って、
最高に愛らしくて、
最高に素敵です。
私たちは、
その子孫なのです。
この本を読んで、
日本人であることの素晴らしさを実感しました。
(高橋フミアキ)