赤ヘル1975

『赤ヘル1975』(重松清)


この小説は、

広島県出身の私は、

涙なしには読めない本です。


随所で号泣しました。


コーヒーショップで読んでいたときはコーヒーショップで、

居酒屋で読んだときは居酒屋で、


なかには電車のなかでも、

誰はばかることなく、

泣いて、泣いて、泣きまくりました。


物語は1975年の春から始まります。

カープが初優勝した年です。


プロ野球のペナントレースが始まり、

期待を集めたルーツ監督が、

5月を待たずにチームを去ることになります。


後任は古葉監督です。


この小説は、

広島カープが優勝へ向けて勝ち進んでいくストーリーと、

広島に住むカープファンの少年たちの

友情の物語が交差したつくりになっています。



野球少年のヤスと転校生のマナブ、

「赤ヘルニュース」という壁新聞を発行するユキオらの

友情がまた泣かせます。



その他、

広島という地域性も盛り込んであり、

10代を広島で暮らした私は、

懐かしさに胸が震えました。


たとえば、

「千羽鶴」のエピソードが紹介されています。


「千羽鶴」は広島が発祥です。

きっかけとなったのはサダコという少女でした。


原爆が原因の白血病に冒されてしまったサダコさんは、

12歳で亡くなるまで千羽鶴を折り続けたのです。


その話をもとに、

1958年、

平和記念公園に「原爆の子の像」が作られました。


この像は、、

折り鶴を頭上に掲げた少女をかたどったものです。


台座にはノーベル物理学賞を受賞した

湯川秀樹博士が寄贈した鐘が吊るされてあります。


その下にはこんな言葉が刻まれています。


「これはぼくらの叫びです/これは私たちの祈りです/世界に平和をきずくために」


ですから「千羽鶴」には、

「病気が全快しますように」という祈りと同時に、

「平和」への祈りも込められているのです。



1953年に盗塁王に輝いた金山次郎選手が、

松竹ロビンスから広島カープに移籍したときのエピソードもありました。


結核で県立病院に入院していた男性の熱意で

金山選手の移籍が決まるのです。


その男性は金山選手の移籍を夢見て、

闘病生活を送っていました。


その男性は、

広島の地元新聞「中國新聞」に投稿して、

募金を募るのです。


投稿記事はこんな文章です。


「なるもならぬも金、金、金。

1千万円の強化資金が集まるか、

集まらないかにあるのだ。

カープを愛するファンよ。

その分に応じてこの募金に参加し、

夢の実現に協力しようではないか」


この募金呼びかけに応じて、

お金が続々と集まりました。


さらにこの男性は金山選手に毎週手紙を書いて送ったのです。


「200万の広島県民があなたをお待ちしています。

なにとぞこの願いを叶えてください。

広島入りの可能性があるなら墨で、

だめならペンで返事をよこして欲しい」


すると金山選手から来た返事には、

「貴殿のご期待にそうべく努力いたします」

と墨痕鮮やかに記されていました。



山本一義選手が

カープへ入団したときのエピソードも感動ものです。


一義選手は、

広島商業から法政大学へ進学し、

主将で4番を務めた名選手です。


プロ入りにあたっては、

南海ホークスから破格の条件で誘いが来ていました。


当時のホークスは前年の日本シリーズで巨人を下し、

勢いのある球団です。


一方、

広島カープは万年最下位の弱小球団。


契約金などの条件も南海とは比べ物になりません。


しかし、一義選手にとっては生まれ育った広島は、

ふるさとです。


のちの首相になる池田勇人通産大臣も

「ふるさとを明るくしてほしい!」

「ふるさと強くしてほしい!」

「ふるさとを優勝させてほしい!」

と延々2時間にわたって説得したといいます。


レベルの高いチームに身を置きたいという

プロとしてのキャリアか、

地元への情か、


一義選手は大いに悩みました。


悩んで苦しんだすえ、

一義選手は、


両親に相談すべく広島に帰省します。


すると、

そこには大変なものが待っていました。


どこから話が漏れたのか、

一義選手が広島に帰ってくる日も、

乗って来る汽車も、

広島市民はみんな知っていたのです。


特急「かもめ」で広島駅に降り立った一義選手を、

数多くのカープファンが出迎えました。


そして口々に

「カープに来てくれ!」

「広島を選んでくれ!」

と訴えたのです。


思いもよらぬ光景を目の当たりにした一義選手は、

いたく感激して腹を決めました。


帰省した翌日にカープの球団事務所を訪ねて

入団の意志を告げたのです。


もしも南海に入っていたら、

毎年のように優勝争いだったでしょう。


個人タイトルの1つや2つは取れたでしょう。


年俸もまったく違ったはずです。


それでも、

一義選手はカープ一筋で、

カープをずっと支え続けました。


広島カープにはそうした感動のエピソードがいっぱいあります。


この小説は何度読んでも泣けてしまう、

私にとっては涙腺破壊マシンです。


(高橋フミアキ)