花嵐 緊迫の13日間

花嵐 緊迫の13日間


土井葉子 



 寒い…。

 あれほど咲き誇っていた桜の木に花はほとんど見えない。舞い上がった花びらの残骸が智代の頬に当たる。数日前まで暖かく賑わった川沿いの遊歩道に今は身を切るように冷たい春の嵐が吹き荒れている。わずかにしがみついている花びらでさえ振り落とされようとしている。智代はジャケットの襟を締め背中を丸めた。空腹を感じたわけではないが、どこか暖かい場所に行きたかった。足がもつれて真っすぐ歩けない。表通りまで出てしぼり出すように「智代、41歳、しっかりしろ…」とつぶやいた。

 

 つい30分ほど前、病院で受けた残酷な告知に打ちのめされてきたというのに、この気持ちを受け止めてくれる家族も友もいない。智代は立ち止まってわけもなくフェンスに手を置き神田川を覗き込んだ。セキレイ2羽が向かい合って尻尾を上下させている。

(つがいかな…)一人ぼっちの部屋に帰りたくはなかった。智代はふらふらと近くのファミリーレストランに入った。

 まだ夕暮れ前とあって席は殆ど空いている。一人の外食もすっかり慣れてしまった。窓際の席に座り、窓に映る自分のうつろな顔に口だけの微笑をつくってみた。

(わたしまだいけてるよね…)20代30代に恋人はいた。ずっと苦しい恋ばかりだった。アラフォーに突入すると胸に黒い霧が渦巻いているようで、何をしていても晴れるという事がない。外の景色に目を移したとたん涙がひとすじこぼれ落ちた。(このままずっとわたしの横に座ってくれる人は誰もいないのかもしれない…)

 


 それはインドの首都から2日がかりの森の中にあった。ダライ・ラマ14世の住まう街“マクロードガンジ”である。デリー空港から電車で一晩かけ、パタンコート駅でバスに乗り換え3時間の所に“ダラムサラ”の街がある。そこからさらにバスで1時間、くねくねした険しい山道を登るとマクロードガンジにたどり着く。

“チベット亡命政府”の拠点であり寺院や僧院が立ち並びその奥にダライ・ラマの公邸もある。標高は2000メートルを超え、周りは山、山、山。


 1959年中国にチベットを武力で制圧されダライラマ13世と共にインドに亡命したのが、14世が15歳の時だった。以来彼らの自由は奪われた。マクロードガンジは当時のネルー首相から与えられた土地だ。

ダライ・ラマ14世は80歳の誕生日を目前にして世界中から式典やイベントに招待され、スケジュール調整に追われていた。地元での盛大なイベントも済み、訪日の準備が行われていた。日本への旅は20回を越える。医師の診察も受け「まだ20年は生きるだろう」とお墨付きももらった。大変な長旅になるがそれでもチベット人に良く似た親切な日本人と逢うのはとても楽しみだった。ハグをすると嬉しそうに身をすぼめるシャイなしぐさは好感が持てる。

  

 招待に応じ切れない地域には弟子のリンポチェ達を代理で派遣した。それぞれ素晴らしい弟子である。迫害から身を守りつつ平和に貢献して欲しいと祈るばかりだった。

講演の原稿は必要ない、内容は心に記録している。日本でのテーマは『人生を楽しむことについて』だ。必要とされている限り対話の機会を持とうと決めている。(仏教徒だけの集会なので一般人は入れないから警備をする者も今回は楽であろう)ダライ・ラマ14世は緊張の糸を少し緩めた。出発前に同行する護衛官や側近、通訳、衣装、儀式の用具などの段取りも終えた。

 

 どんなに忙しくともダライ・ラマは食事前の儀式を怠る事はない。夜明け前の暗闇の中、寝床を出て身を清め、4時間かけて礼拝をする。どこへ行ってもこの儀式を休む事はない。

明日から13日の間、日本に滞在中とて同じである。旅の前日も例外無く場を清め感謝の祈りと儀式に余念が無い。


 ダライ・ラマは自分の声が好きだった。床に置かれたギーランプがずらり並んだお堂で、強く、時に優しくチャンティングを歌うように唱えるのが至福の時間であった。が、今日はなにかが違うのだ。

朝から胸に小刻みな波紋が広がるのを彼は内観していた。日本で何か起きるという事なのか。(ただ愛を与えるのだ。自分にも他にも……)

 


「胸腺腫瘍が5センチになってますねぇ」

昨日主治医の侭田にサバサバと言われた言葉を智代は思い出していた。「手術をしたほうがいいわ。これ以上大きくなって肺に移転したら悪性になるかも知れないし、わたしも責任もてませんよ」智代は反射的に「はい、お願いします」と答えていた。手術は12日後に決まった。


 3年前に見つかった腫瘍は取ってもまた再発を繰り返し、今回で3度目である。年々大きくなる速さが増している。「わたしが何をしたっていうの!まだ苦しまなければいけないのですか?」智代は神に向かって心の中で叫んだ。それでも智代は運ばれたお茶とケーキを無表情のまま口に運んだ。甘いものはからだによくないのは解かっているが、クリームの甘さはいっときでも心満たされ智代をほっとさせてくれた。食べ終われば罪悪感と寂しさがおしよせる。

 

 窓の外の景色が蜃気楼のように浮かんで見えた。ダリの絵のように、とろけた時計と殺伐とした風景が目の前の景色と重なり光を失っていった。いつのまにか街路樹の間に街灯が点っていた。買い物をする主婦や帰宅する人々が目まぐるしく行きかう。(帰ろう…)亡霊のように智代は立ち上がり店を出た。新宿駅に向かい電車に乗りシートに腰掛け”荻窪駅で降りる。商店街を抜け瀟洒な家が建ち並ぶ道を、力の抜けた足で家を目指して歩いた。やがて二階建ての白亜の一軒家が緑に囲まれた植え込みの奥に見えてきた。この家を選んだのはお洒落で大家さんが隣に住んでいるから。そこには番犬もいるので一人暮らしの彼女にとって安心な物件だった。


 しかし玄関を開ければ物が散乱していて足の踏み場もない。特にここ数年、智代は片づけることができず我が家に帰っても休めるところは無かった。(こんな生活変えなくては…)

智代は貴婦人が座るような椅子に身を沈めた。

ふと姉の言葉が脳裏に浮かんだ。姉は以前、母親の形見だった伊万里の大皿を欲しがっていた。「送るね」と言ってからそのままだった。智代は大皿を納戸から探し出してダンボールに丁寧に詰め、嫁ぎ先の住所を書き宅急便で送った。彼女にしては久々の重労働だった。家族と話したかった。汗ばんだ額をぬぐいながら智代の口元に笑みが浮かんだ。返事は来るだろうかと、わずかな期待を抑えられなかった。ここ数年会話らしい会話は美容院でしかしたことがなかった。美容院の人達は優しく話を聞いてくれる。それでも仕事上でない身近な人との会話に飢えていた。


 数日後、荷物は戻ってきた。姉は引越しをしたらしい。早くに死んだ両親の遺産相続で裁判になり、お互いに雇った弁護士の連絡先は知っていた。早速電話をしてみたが返ってきた返事に智代は絶句した。「お姉さまから『引越し先を妹に教えないで欲しい』と言われております。連絡は私を通してするようにとのことです」息を吸おうと口をパクパさせても肺に酸素は入っては来なかった。智代は呼吸困難に陥り携帯は手からこぼれ落ちた。(そこまで姉はわたしを恨んでる…?)喉に両手を当て死んだほうがましと思えるほどの苦しみと悲しみに身もだえしながら、智代はもう息絶えてもいいと思った。

 


 その頃ダライ・ラマ一行はマクロードガンジを夕刻に出発。険しい山道を車に揺られ、翌日デリー空港に到着。連絡を受けインド政府は空港の警備を強化していた。険しい顔をして銃を構えている30人ほどの軍の兵士の一人に歩み寄り、ダライラマは腕を組み親しげに声をかけた。兵士の顔もほころび何やら言葉を交わした。飛行機に乗り込むと、機内は慌しくなった。搭乗員達は殆どダライ・ラマの一行が搭乗するのを知らされていなかった。多数のインド人と共にエコノミークラスに乗り込み、前方の席に座った。インド人たちが気付き始め騒がしく口を動かし、我先にとダライラマの周りを囲み握手を求める。ダライラマは終始ニコニコ応じている。

 

乗務員たちは急遽この高僧にファーストクラスに移ることをすすめた。一旦は移動したものの気さくな高僧はすぐにもとの席に戻り「わたしはこっちがいいから」と、またインド人に囲まれてしまった。何とかインド人を席に座らせ、喧騒は収まった。銃を持つものにも一般人にも、乗務員に対しても終始同じ態度で接するダライ・ラマ14世のふるまいに、誰もが親しみと畏敬の念を抱くのである。

 

 10時間半のフライトを終えて、午後には成田に到着。時差は3時間半ほどだが、疲れを感じなかった。ダライ・ラマ14世は乗務員たちの手をとって感謝を伝えた。中国側に配慮してか来日の情報は公には発表されない。それでも成田空港にはチベット仏教最高指導者、法皇(政界からは退いている)ノーベル平和賞受賞者であるダライ・ラマ14世をひと目見ようと大勢の人が集まっていた。空港内だけでもの警備は50人体制で望んだ。行く先々の警備も万全を期し、到着ロビーにはインド大使館員や僧侶などが法皇様を出迎え歓迎した。


 ダライ・ラマ暗殺計画の噂は今に始まったことではない。9世から12世が若くして死んだのは、毒殺だったと言われている。ダライラマは常に覚悟をしていた。今までもどれほどのチベット人、信者、親戚が迫害を受けてきたたことか……。中国に「強く抗議をすべきだ」と言う者もいる。しかし行為は憎むべきものだが、相手と同じ境遇に生まれれば人は同じ行為をするかもしれない。皆同じ神の分身なのだ。憎しみから平和が生まれる事はない。

 

 中国人にもイスラム教徒の中にも“チベット仏教”に興味を持ち「われわれは共存できる」と宣言する者にも沢山逢ってきた。宗教の枠を超え一人でも平和に貢献するものが増えればこんな嬉しい事はない。その情熱を胸に世界中を奔走し続けてきた。

高僧の妻帯は許されているが、最高指導者として常に逮捕、拉致、拷問の危険をはらむダライ・ラマの身に到底許されることでは無かった。女と男、神に与えられた至福の経験をいとなみ、子を育て社会を造る…。そんな平凡な自由は得られなかったが、そんな中でも人生を楽しむ姿を実践して見せたかった。

 

『正直さ』と『スマイル』で対話をすれば世界は優しくなる。広い視野で見れば、“人は幸せに向かって前進している”そう信じてきた…。ゆるぎない信念の内側に打ち寄せるざわつきがホテルに向かう車の中で再びダライ・ラマの居心地を悪くしていた。執着は棄てたはず、どんな波乱が起きようとこの身をただ愛で満たし続けようと想っていた。ところが普段は聞こえないはずの鼓動が法衣の下からわずかに聞こえてくる(これはいったい…)

 


 恐怖で一睡もできないまま智代は朝をむかえた。それでも苦しいなりに浅い呼吸を続けていた。瞳はギラつき異様な光をはなっている。

前回の2度の手術は数時間で終わり日帰りだったが、結婚前の女の胸に刻まれた傷は小さくとも心に深い傷を残した。局部麻酔の為、意識がはっきりある。3度目の手術でまた気絶しそうな恐怖とひとり戦わなければならないのだ。傷が目立たないように少しずつ脇のほうへずらして切る事になる。それは脇を通るリンパを痛めることになり、免疫力が落ちることを意味していた。意識ははっきりあるから恐怖は並大抵のものでは無い。切除してもまた半年もしないうちにまた腫瘍が出来るかもしれない。これ以上胸にメスを入れたくない。切るたびに智代のからだは悲鳴をあげた。


 手術をしてもしなくても生存率はそう変わらないというデータもある。胸腺腫瘍は急速に大きくなる事があるから、そのまま放置すれば増殖して肺に移転するかもしれない。肺癌になる可能性が高い。

どちらを選択したらいいのか。わたしの生きる道はもう無いのか…。智代は今宵も眠りとは程遠いまどろみのまま朝を迎えた。

 

 翌朝から取り憑かれたようにパソコンに向かい何日も検索し、本を読みまくった。自然療法・気功・レイキ…。世界的に有名な施術師が山ほど居るではないか。

まず東京近郊で検索し、高名な気功師を見つけ智世はすぐに予約を取った。その横浜にある治療院に足を踏み入れたとたん柔らかなエネルギーに包まれた。

施術室に通されると暖かなオーラを感じる心地よい初老が笑顔で迎えてくれた。天国にいるような空間で受ける施術は身も心も浄化してくれるような気がした。

施術氏は言った「あなたは神社仏閣に行ってはいけない。人の祓った邪気を拾ってしまうから」と言う。

そういえば神社に行くと卒倒しそうになったり、吐き気がして動けなくなったりするのを智世は思い出した。

礼を言って帰った。が、家に近づくに連れ恐怖は以前にもまして大きくなった。それと同時に腫瘍も大きくなった気がした。

 

 癌を消すと評判のヒーラーにもセッションを申し込んだ。できれば胸にメスを入れたく無い、わらをもすがる気持ちだった。セッションだけでなくワークショップを申し込んだが、なぜか智代は講師に特別扱いされた。講師に「あなた、テストの答え解かるでしょ」と突然言われ、クラスはざわついた。(そう、答えはすぐ解かったしドイツ語、フランス語、英語も最初から知っていた…)そんな能力はズルしているようで要らないと思っていた。3日のコースを終えたがクラスの雰囲気は最悪だった。ヒーラーを目指している人達で一見いい人だが、智代は嫉妬の対象だった。

 

今までも華道をすればあまりに独創的で質問攻めの智代に先生から疎ましく思われた。演劇・彫刻・絵画・声楽・陶芸…日本でも屈指の先生についても必ず他の生徒に妬まれた。始めから持ってる遺産も能力もギフトと感じることはなかった(ちっともいいことなんか無かったよ…ずっと)なんとか黒い霧の中にうもれている自分から一刻も早く抜け出したかった。

講座で知り合った仏教徒の幸子に、ダライ・ラマ14世が東京で講演をするから一緒に行かないかと誘われていた。智代は簡単な手続きをしてにわか仏教徒となった。手術はもう3日後に迫っていた。



 ダライ・ラマ14世は精力的に講演をこなしていた。笑顔で正直で飾らない人柄は誰からも愛された。それでもこの高僧をあらゆる危険から守ろうと警備の関係者は緊張の糸をを弛めることはない。北海道から始まり一行は最期の会場である東京に向かっていた。開催するホテルではあらぬ噂に従業員たちが神経をとがらせていた。

中国人の女性従業員が朝出社したのを他の従業員が確認しているが、その後姿が見えないというのだ。携帯に連絡してもメールをしても返事がないという。チベット語や英語も堪能な彼女はダライ・ラマ一行のお部屋係りであった。もうすぐ一行の車がホテルに着く時間なのだ。


「彼女は朝からそわそわしていた」「あちこちのポケットに手を入れ何かを探しているようだった」様々な憶測が飛びかった。「昨日みんなが法王様の話で盛り上がっている時、彼女だけが輪に入らず浮かない顔をしていた。中国は日本にスパイを送り込んでいるらしい。もしかして…」仲間を疑うなんてと思いつつみんなの緊張は一気に高まった。彼女は誰からも好かれる明るい女性だった。しかし今や従業員たちは一行が泊まる部屋や共有する箇所を再度徹底的に調べ消毒を丹念にし直した。過去にあったとされる”ダライ・ラマ暗殺”の文字が支配人らの脳裏に焼きついてしまったのだ。そんなことが実際に起きたら世界中がパニックになってしまうだろう。支配人も従業員も右往左往するばかり。ホテル内の機能は全く制御不能に陥り四方から間違った情報が入り乱れた。支配人は他の客に悟られない様見回しながら「彼女はまだ見つからないのか?」と思いつく限りの関係者に電話をしまくった。

 

 見ればとっくに一行の到着時間が過ぎている。支配人の血の気が失せた。「玄関周りを探せ」手の空いた者達がいっせいに玄関ホールに向かった。」やはり車は到着してないようだ。もう誰を捜してるのやら脳は酸欠状態の者達ばかりだった。世紀の一大事。中国人女性を捜して危険回避を優先するべきか、到着の遅れたダライ・ラマ一行の現在地を捜索するべきか。仏教徒達の集会で講話をするのは明日だが、今日夕食のあと打ち合わせがある。かぎつけたマスコミ関係者がすでに入り口付近でざわめいている。何も進展しないまま刻一刻と時は過ぎていく。支配人は生きた心地がしなかった。

 

 

 智代は世界的に高名なヒーラーのセッションを受けていた。セドナから来日していてたまたまキャンセルがあると聞きコンタクトをとったのだ。苦しい胸のうちを一気に英語で吐き出した。胸腺腫瘍が出来て3度目の手術を受けなくてはいけないこと、小さい頃から兄に言葉にするのも恐ろしい虐待を受け続けたこと、周りからいつも妬まれる事、母が結婚していない智代を心配して遺産を姉や兄より多く遺産を残した事、そのせいで今でも二人から酷い仕打ちを受けてる事…時々息を整えながら話し終えた。


ところが聖職者のように柔和だった彼の顔は兄の虐待のくだりで一変し、眉を曇らせた。みるみる怒りの炎が彼の目に写った。「本当に酷い。解かるよ、わたしの兄がそうだった!懲らしめなくてはいけない」彼の邪気が智代の目の前で渦を巻き、竜のようにエネルギー体となって立ち昇るのを感じた。恐ろしさに身動きが取れなかった。智代は相手の思考を読み取る事ができる。(彼は怒りをコントロールできない…)智代は恐ろしさに打ち震えた。(懲らしめてくれなどと望んでないのに怒りを引き寄せたことになるのだろうか…)あとは何を言われたのかほとんど覚えていない。約束の残り時間を終えて高額なお金を払い、逃げるように引き返した。手術前夜であった。

 

 智代は覚悟を決めた。怒りをコントロール出来ない者に依存してはいけない。手術を恐れて何かにすがろうとした自分を反省した。手術への恐怖が不思議とうすらいでいた。長く生きられないとしても、全て神にゆだねよう。病があったから天国で学ぶべき事を生きているうちに学ぶ事ができたのだ。魂が総ざらいのように、本来の姿に戻されている感じがした。智代の目に穏やかな光が浮かんだ。今はきっとまだ生き延びるんだと智代は強く感じた。

 

 蓄積された古い恐怖のエネルギーが浮上して智代の周りに渦巻くのをしっかり見据えた。地獄の恐怖は否定のエネルギーだとわかった。怖くはなかった。ただ眺めた。その先に神の大きな愛を感じて癒されているのを感じたから。“もともとここに有ったんだ”わたしの中心に。もう孤独を恐れる必要はない。心から食事を楽しもう。笑える場所に出かけよう。

 

ふとダライラマ14世のお顔が浮かんだ。実際にお会いした事は無いが、力強く優しい情熱的な話し方、苦しみを慈悲でくるみ相手を理解し尊重しようと両手を広げて受け止める寛容さを想い浮かべた。その過去には多くの苦悩と孤独があったであろう。

彼の存在だけで充分だった。智代は講話を聴くまでも無い気がして家路へと急いだ。足も軽やかに、胸によどんでいた黒い霧は1週間以上続いた冷たい風とともに一掃された。

ダライ・ラマ14世のスマイルとあの力強い声が聞こえる気がする。「歩け、歩け、歯をみがけ!」

 

わたしは生きている、それでいいと智代は思った。

 

 


 ホテルの支配人はもう泣きたい心境だった。食堂ではすでに夕食が配置されていた。もう記者たちが騒いでマイクを従業員に向けている。何も言うなと言ってあるが、もう限界だった。いったい何処におられるのか、もしや事件に巻き込まれて…。冷や汗で下着は背中までぐっしょり濡れていた。

 

その時ダライ・ラマ14世が記者の間から左手をふりながら現れた。右手で歯を磨きながら「いやあ、時間遅れてごめんなさいね」支配人は「法皇様お待ちしておりました」深々と頭を下げた。顔を上げると中国人の行方不明だった女性を伴っている。「君はいったいどこに…捜していたんだぞ!」彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。「内緒にしていて申し訳ありません。わたしは法皇様の親戚なのです。祖母と法皇様は従兄弟で今日お逢いできるのを心待ちにしていました。お手紙でやりとりをして、時間を少し作ってくださることになっていました。その時間と場所を書いたメモが見つからなくてつい…」

一行も少し遅れて車で到着した。

事件ではなかった。それで十分だった。だれもが安堵の息をもらした。

 

 法皇様のざわついたお気持ちは亡命前チベットにいた14歳の頃、彼女の祖母の少女時代に淡い気持ちを抱いた記憶によるものだったのだろうか。同郷の中国人女性と話すうちに、胸騒ぎは懐かしさへと優しく変わっていった。今は遠く離れてしまった標高4500メートルのチベットの地を想った。

 

 翌朝まだ暗いうちからダライラマ14世は最終日の講演会場へ向かい、智代は千駄ヶ谷の病院へと向かった。春は暖かさを取り戻し、一気に桜の木は見事な新緑の若葉を繁らせ光に映えていた。


(了)


コメント: 2
  • #2

    リンカ (木曜日, 17 9月 2015 17:36)

    情況描写が上手で、緊迫感がよく出ていました。作者のダライ・ラマへの愛が感じられる作品だと思います。
    智代さんの話との繋がりがわかりにくいのが少し残念でした。

  • #1

    鈴木康之 (水曜日, 16 9月 2015 21:59)

    話の主役がダライ・ラマなのか、智予なのかよくわからない気がします。

    智予が能力者なら、本来医者に行かなくてもガンは治せる気がするのですが・・・