■芥川龍之介
芥川龍之介の生涯は苦悩の連続でした。
生後7か月のころに龍之介の母親が精神に異常をきたしたので、
母親の実家に龍之介は預けられます。
11歳のとき、その母は他界します。
実母からは愛情らしいものはひとつも得られませんでした。
たまに会っても煙管で頭を殴られる始末。
「僕は一度も僕の母に、
母らしい親しみを感じたことはない」
と随筆に書いています。
翌年に龍之介は伯父の養子となり芥川姓を名乗るようになるのです。
小学校のころから成績は優秀で中学のときに
「多年成績優秀者」の賞状を受けています。
自分は「もらわれた子だ」という意識はこのころすでにあったようで、
芥川家で、
自分の居場所を確保するためには、
勉強するしかないんだという思いが龍之介を勉学に没頭させました。
1学年で数人しか合格者を出さない難関の
東京帝国大学文科大学英文学科へ進学します。
短編小説の『鼻』を書いたのはこのころで、
同作品は夏目漱石に絶賛されます。
これが作家への足掛かりになるのです。
23歳のとき婚約者のいる女性を好きになり交際を始めます。
これは養母に大反対され、
龍之介は泣く泣くあきらめます。
「エゴイズムのない愛がないとすれば
人の一生ほど苦しいものはありません。
周囲は醜い。自己も醜い。
そしてそれを目の当たりに見て生きるのは苦しい」
と友人に打ち明けています。
1916年に卒業してからは、
漱石の口添えもあり海軍機関学校の英語教官の職を得ます。
学校の先生をしながら創作活動に励むのです。
翌年には『羅生門』を書いています。
海軍機関学校を辞めて大阪毎日新聞に入社し創作に専念します。
新聞社に入社したといっても、
新聞への寄稿が仕事なので出社の義務はなかったようです。
そして、
1919年に結婚しています。27歳でした。
比呂志、多加志、也寸志と3人の子どもにめぐまれますが、
心身が次第に衰えていきます。
長男出生のことを
自伝的小説『ある阿呆の一生』でこう表現しています。
「何のために、
こいつも生まれてきたのだろう?
この娑婆苦の充ち満ちた世界へ」
龍之介は、
人間関係に疲れていました。
「生活よりも芸術のほうが僕の心をつかむ」
と言っているくらいですから、
現実が龍之介にとっては煩わしかったのでしょう。
龍之介には扶養家族が8人いました。
妻と3人の子ども、
養父母、叔母のフキ、
そして姉ヒサの前夫の子どもです。
この不要家族が龍之介の肩に重くのしかかります。
ところが龍之介は
創作活動10年を迎えるころから、
小説が書けなくなっていくのです。
題材が尽きたのだろうと言われています。
精神衰弱、腸カタル、胃潰瘍、不眠症などを患い、
療養のために湯河原や鵠沼、鎌倉などで過ごす日々が続きます。
1927年(昭和2)は龍之介が自殺した年ですが、
龍之介はある事件の処理に追われます。
姉ヒサの家でボヤ騒ぎがあったのですが、
そのときヒサの夫西川豊が放火の嫌疑をかけられ
鉄道自殺したのです。
西川の遺族も龍之介の家に来て、
扶養家族は12人なります。
おまけに西川が抱えていた高利の借金も龍之介の筆にのしかかって来ました。
猛烈な勢いで執筆しますが、
原稿料だけでは追いつきません。
精も根も疲れ果て、
睡眠薬を常用するようになります。
そんななか、
静養中の龍之介を見舞う女性が、
「私の子、あなたに似ていない?」
と言う出来事もありました。
この女性とは以前不倫関係にあったようです。
それにしても、
胸が引き裂かれそうな状況です。
苦しくて逃げ出したい気持ちになっていたのでしょう。
龍之介が睡眠薬を多量に飲んで自殺したことは有名ですが、
以前から家族や友人たちに自殺をほのめかす言動があったそうです。
それゆえ実際には早期に発見されることを望んだ狂言自殺だとする説もあります。
35歳という若さでこの世を去ったのです。
龍之介の名言にこんなのがあります。
「幸福とは
幸福を問題にしない時をいう」
(高橋フミアキ)