小説『紫陽花と蝸牛』


「紫陽花と蝸牛」                         

小俣友里


 梅雨入り前の日曜日、二人は不動産屋の若い男に続いてマンションを出た。

 

 羽田空港行きの東京モノレールの下をくぐり、旧海岸通りを横切ってJR田町駅に向って歩いていった。駅へ続く商店街の花屋には青紫の鉢植え紫陽花が並んでいる。

 

 気温は高く、半袖のシャツでも蒸し暑かった。高そうなペットを連れたご婦人や、屋根付きの高級ベビーカーを押したママ達と何度もすれ違った。

 

 優子は歩きながら妹の顔を何度も覗き込んだ。姉の足取りは軽く、微笑がこぼれてきそうだった。

 

 憧れの高級タワーマンションにもうすぐ住めるからだ。

 

 どういうわけか、このあたりに住む人はジーンズにTシャツ姿でもお洒落に見える。二人は無言のまま、田町駅前のコーヒーショップへ入り、遅めのお昼ご飯に、それぞれコーヒーとサンドイッチ、アイスティーとベーグルを頼んで席に着いた。

 

 隣の席ではスーツを着たサラリーマンが、ケータイ電話を肩に挟んだまま、忙しそうにノートパソコンに文字を打ち込んでいた。隣に座った姉妹の会話など、全く耳に入らない様子だ。

 

「サンドイッチ食べる?」

優子が聞いた。

 

今日香は表情を変えずに「いらない」と言った。

 

いつもはケンカもしない仲良し姉妹なのに今日はなかなか会話がはずまない。

 

「きょうちゃん、今日機嫌いいね?」

 

 優子は笑いながらもう一度話しかけた。

 

「そう?」

「引越し、もうすぐだね。安い引越し屋さん探さないと」

 

 優子がさっきより笑顔で話しかけると今日香は視線を少し下に落として、一呼吸置いた後、

 

「ゆうちゃん、やっぱり方南町の家がいいのだけど」

と言った。

 

優子はもう一度、今度は少し無理をしてちょっとだけ笑った。

 

そしてできるだけ口角をあげたまま今日香の顔を見上げた。

「嘘でしょ?もう契約金支払ったよ」

「うん、知ってる。けど嘘じゃない」

言葉に詰まって優子が笑い出すと、今日香も一緒に笑った。

 

「笑い事じゃないから」

「そうね」

「理由を教えて!」

 

「理由?不満はないよ、あそこは十分すぎるくらい良いマンションだと思うよ」

 と今日香は真面目な顔で言った。

 

「理由はない? 全部私に任せると言った妹が、突然引っ越しをやめようと言っているのに?」

「たぶん言ってもわからないと思う」

「ねぇ、まじめな話をしているのだけど」

「わかるよ、まじめに聞いてる」

 

「なら、どうして? ちゃんと答えて欲しいのだけど」

 優子は口を拭いた紙ナプキンを二つ折りに丁寧に畳んだ後、テーブルの2枚のプラスチックトレイをゆっくりと静かに重ねた。

 

「フィーリング。さっき部屋に入って感じたの、ここじゃないって」

と今日香は少し申し訳なさそうに言った。

 

「え?!それが理由?もう一度よく考え直して。きっと時間が必要なのよ。よく考えれば、これから別々に住む事がどんなに無駄なことかわかると思う」

「そうかな?私はそうは思わないけど」

「あなたが引っ越さなくても、私は一人で引っ越すから。もう上司にも話をしてしまったし」

「どうぞ。私はまだ誰にも話してないけどね」
 優子は思い出したように腕時計を見た後、重ねたトレイと重たい書類の入った茶色い革のかばんを持って慌しく席を立った。

 

「続きは今夜帰ってからにしましょう・・・ねぇ聞いてる?」

 今日香はかばんの中から大好きな推理小説を取り出しながら、

「もちろん。私は暫くここで時間つぶして帰るから」

と、いつも通りのマイペースな口調で答えた。

 

(了)