真珠夫人

『真珠夫人』(菊池寛)



菊池寛に巨万の富をもたらした作品です。


謎のテクニックや葛藤のテクニックなど、

読者を飽きさせないテクニックが駆使されていて、


最後まで一気に読ませる力があります。


大正時代の一大センセーションとなった白蓮事件も

モチーフとして使っていて、


当時の読者たちは興奮しながら読んだだろうなというのが、

想像できました。


映画や舞台、

TVドラマなどで何度もリメイクされ、


現代でも色あせることのない物語です。


あらすじは、


大正時代。


男爵令嬢、唐澤瑠璃子は、

敵の罠にはめられた父を救うため、

泣く泣く卑しい高利貸しの荘田勝平の妻となります。


しかし、

瑠璃子の心を常に占めていたのは、

同じ貴族で恋人の直也でした。


直也のために処女を貫きながら生きていく瑠璃子の姿は、

ときに誤解を招き、

敵を作りますが、

読者としては憎めないものがあり、


最後は胸がキュウンとなります。



瑠璃子のサロンで、

客人たちが文学談義をするシーンがあるのですが、


作者の菊池寛の文学に対する思いが見え隠れしていて、

創作活動をされている方には、

かなり勉強になると思います。


ここで紹介しますね。



国木田独歩を論じる場面です。


「独歩のような作品は外国の自然派の作家にはいくらでもあるのだからね。

先駆者というよりも移入者だ。

日本の文学に対して、

ある新鮮さを寄与したことはたしかだが、

それがあの人の創造であることは言われないね」


さらに、

尾崎紅葉を通俗小説だと言う人物と

そうではないとする人物の議論が展開されるシーンです。


「現在の文壇の標準からいえば、

『金色夜叉』のテーマなんか通俗小説にちがいないです。

が、しかしそれは『金色夜叉』の書かれた明治35年から

現在まで20年も経過していることを忘れているからです。


現在の文壇であなたが芸術的小説だと信じているものでも、

20年もたてば

みんな通俗小説になってしまうのです」


「そんなバカな話があるものですか、

芸術的小説はいつが来たって

芸術的小説ですよ。

日本の作家でも、

西鶴などの小説には、

いつが来ても滅びない芸術的分子がありますよ。

天才的なひらめきがありますよ」


「トルストイの作品が、

日本などでも段々通俗化してきたように、

通俗化していかない作品こそ

かえってなんかの欠陥があると思うのです。

ご覧なさい! 

馬琴でも西鶴でも通俗化していけばこそ、

後代に伝わるのじゃありませんか」


そこへ秋山という小説家が遅れてサロンにやってきます。

明治期の作家で一番は誰かという議論に結論を出すのです。



「明治の作家のうちで、

本当に人間の心を描いた作家は

樋口一葉のほかにありませんからね」



こうした議論も、

当時の読者の心をつかんだのではないでしょうか?



小説を読むことくらいしか娯楽はなかったわけですから、

小説は庶民の話題の大きな部分を占めたはずです。



今で言えば、

映画の議論をするってことでしょうか。


とにかく『真珠夫人』は、

売れる要素満載の小説です。



創作を勉強している人は、

ぜひ一度読んでみるといいでしょう。



(高橋フミアキ)