「理想の生活」
楓 今日子
梅雨の薄曇りの明るさが遮光カーテンの隙間からベッドに差し込んでいる。久しぶりによく寝た。早起きして片付けようと思っていた用事は、朝6時に目が覚めた時に「今日は土曜日だし、今日やらなくて良い」ことにした。ゆっくり休めて良かったことにしよう。
まだ暑くもなく寒くもない季節に、ふわふわの毛布と柔らかいシーツの間でぬくぬくしているのは、なんて気持ちがいいんだろう。でも、もう10時だから起き上がって動き出そう。
腰の手術をした母のために手摺を取り付けた階段は、私にも安心感を与えてくれる。その階段を下りて台所へ行った。
75歳の母がテーブルでお茶を飲んでいる。
「ずいぶんゆっくり眠れて、いいねえ」
と軽くイヤミを言ってくるけど、私にとっては、カラスがカーカー鳴いているのと同じに聞こえる。
そんなことより・・・せっかくのんびりした気持ちで起きたのに、テーブルの上を見た途端、イライラと怒りがこみ上げてくる。
調味料、パン、コーンフレーク、お菓子各種、サプリメント各種、ウイスキー、飲み薬、目薬、果物、サラダの残骸、肉じゃがの残骸、何か食べ終わったようなお皿、コーヒー、紅茶、飲み終わった野菜ジュース、オレンジジュース、飲み終わったスープ皿、コーヒーカップ、ビジネス本、ダイレクトメール各種、回覧板、手紙、新聞、ボールペン、メモ帳、小銭各種、お菓子の空き箱各種、食べ終わったカップラーメン、レシート、その他色々なもの各種。
そしていつも私が座るイスには、湿ったバスタオルが置いてある。座るところもない。
「何で濡れたタオルがここに置いてあるのよ」
「お兄ちゃんが、さっきシャワー浴びてたからかね」
「何で、私のイスに置くの! ちいちゃんは、何で台所のテーブルの上に何でも置くのよ!」
「え? 何が? お母さんのことを『ちいちゃん』なんて呼ぶのは、加代子だけだよ。まったく。いくら年をとって背が小さくなったからって、自分の母親に変なあだ名つけて、失礼だよ」
「おやじっちは、また、食べっぱなし、飲みっぱなしで。何でゴミをゴミ箱に入れないの? 汚いタオルも私のイスに置きっぱなしで」
「また、お兄ちゃんの事をおやじっちなんて言って。もうゴルフの練習に出かけたよ。気が付いた人が片付ければいいじゃないか」
「ちいちゃんの教育が悪いから、おやじっちは片付けないんだからね」
「いつまで教育させるんだい。だいたい、加代子もお兄ちゃんも、本当だったら結婚して家庭を持ってて、自分達の子供だってそろそろ手が離れるくらいの年齢なのに、誰も結婚しないで。いつまで親が教育しなくちゃいけないんだよ」
「・・・『本当だったら』、の意味がわからないし。だから、なんでちいちゃんもおやじっちも、何でもテーブルの上に置くの? 台所なんだよ。これじゃ食べる場所がないでしょ」
「この家には、物を置くところがないんだよ」
「はあ? リンゴやバナナの上に書類を置く人なんていないよ」
「それは、さっき届いたばっかりだから、ちょっと置いただけだよ」
届いたばかりの書類は果物の上に置くのだろうか? 私が綺麗なガラスの果物皿に、静物画を書きたくなるような雰囲気で綺麗に盛り付けておいた果物の上に。
「しかも、書き込んで提出するものじゃないの? シミが付いたらみっともないでしょ」
「他に置くところが無いじゃないか」
「もうっ! この前、整理しやすくしたでしょ。とりあえず、向こうの部屋のテーブルに持ってってよ」
「腰が痛いよ。とりあえず、ここに置いとく」
母はテーブルの下の箱にその書類を入れた。
雑誌やダイレクトメールや必要なのか何なのか分からない物がゴチャまぜになっている。
「そうやって、いつも大切な書類が見つからなくなるんでしょ」
「気がついた加代子が向こうの部屋に持って行けばいいんだよ。でも、加代子が何でも片付けるから、いつも物が無くなるんだからね。お兄ちゃんもさっき、『加代子にやられた~っ』て言いながら、何か探してたよ」
「・・・。普通の人達と普通に暮らしたい。私、シンデレラって感じがする。意地悪な母親と兄弟にいじめられて」
「自分だけがまともな人間みたいな言い方して。普通に結婚しなかった自分が悪いんだよー」
「・・・」
母にも兄にも好きなところもあるし尊敬する所もある。でも。
食べ物と食べ物ではないものと食べ終わったものその他で、盛りだくさんになっているテーブルから流しのほうに目を移すと、ガチャガチャに重なっている食器たちが「早く洗ってくれー」と大合唱しているように見えた。
食器を洗ってシャワーを浴びて、どこか静かな場所に行って、これからの自分の理想の生活を考えよう。母にも兄にも幸せな理想を。思い描けば実現する。
ホントに? 絶対?・・・ため息をつくのも実は体に良いと最近どこかで読んだ気がする。
(了)