毛沢東の私生活

『毛沢東の私生活』上下(李志綏/リチスイ)


行きつけの焼き鳥屋で、

常連客のおじさんと中国の話題になりました。


そのとき

「この本を読んでみな。おもしろいよ」

といってススメられたのが『毛沢東の私生活』です。


著者は、1954年から76年まで毛沢東の主治医として、

主席のそばで私生活を見て来た人です。


この本が出版された3か月後、

95年2月にシカゴの自宅浴室で逝去。

心臓発作と診断されました。


「もし私が殺されても、

この本は生き続ける」


という言葉を残しています。



まず毛沢東はダンスが大好きでした。


革命後、社交ダンスはブルジョア的だとして禁止され、

ダンスホールはすべて閉鎖されました。


しかし、

毛沢東の屋敷の北西にある

「春蓮斎」という場所では、

週1回ダンスパーティが開かれていたのです。


毛沢東がダンスホールに入ると、

文化工作隊から派遣された

よく気のつく若い美女が、

毛沢東を取り囲みます。


西洋音楽にのって、

毛沢東はかわるがわる若い女の子を相手に踊るのです。


このダンスパーティの真の目的は、

単に踊るだけではありません。


ダンスホールに隣接する一室には、

毛沢東専用の特製ベッドがあり、

毛沢東がダンスの途中で一休みできるになっています。


そこへ毛沢東が若い女の手をとり、

その部屋に連れ込んでいるのを、

著者は何度も目撃しているのです。


また、

毛沢東は国民の命をパチンコの玉くらいにしか思っていませんでした。


1957年に訪ソしたとき、

こんな演説をしています。


「私は3億の人民をうしなうことも辞さない。

人口の半分を失っても、

中国にとって大きな損失とはならない。

人間ならいくらでも生産できるのだから」



毛沢東が権力を握っていた時代

「反革命分子」として処刑されたのは87万人。


「大躍進」での餓死者は2215万人。


「文化大革命」では13万人が処刑。

172万8000人が異常な死を遂げています。


恐ろしい指導者です。


毛沢東は側近に対しては頻繁に癇癪を起していました。


著者が毛沢東に、

「身体検査を受けてください」

と医師として当然のことを要求したときのことです。


毛沢東は急に癇癪を起して、

著者を怒鳴り飛ばします。


しかし、翌日はケロッとしてこんなことを言ったそうです。


「実を言うと、カッとするのも、

私の武器のひとつなのだ。


私のいやがることを無理矢理やらせようとすると、

私はカッとなってしまう。


そしたらいやなことをやる必要がなくなるのだよ。


カッとなったおかげで、

私は検査を受けなくてもすんだ。


私の癇癪持ちは気にするな」



毛沢東の性的活動は女性に限られていませんでした。


世話係りでもある警護官の若者たちは、

きまってハンサムで屈強だったのです。


任務のひとつは

毛沢東が眠れるように

夜な夜なマッサージをすることでした。


毛沢東はそんな若者につかみかかって抱きしめることもあったのです。


毛沢東は絶対的な独裁者でした。

その毛沢東がこんな有様です。


破廉恥極まりない指導者に中国は支配されていたということです。




(高橋フミアキ)