梅と桜
平泉あき
細い道を右に曲がる。しばらく両側にブロック塀のある細い道を歩き、今度は左に曲がる。
世田谷の入り組んだ道を高村は物思いにふけりながら歩いていた。明大前の高村のマンションから東松原駅までの道は、地元の住人でさえ迷いそうな地域だが、高村は地図も持たずに、うつむいたまま歩く。
コンクリートの高い壁に隠された豪邸やおしゃれな新築の家や黒塀の古い家屋などが並ぶ広い道に出る。
高村はケータイ画面に目を落として時間を確認する。
「午後3時までに連絡する」と娘が言っていたのでいつ電話が入ってもいいように高村はケータイを左手に持って歩く。ブブブブっと震えたらすぐにでるつもりで意識しながら歩いていた。
マンションの部屋にひとりでいても落ち着かないので散歩にでたのである。合格か不合格か、高村のほうがドキドキしていた。
下り坂にさしかかったところから東松原商店街がはじまる。道の両側に並ぶ街灯ポールに紺地に白抜き文字で「祭り」と描いたフラッグが垂れ下っているので、この通りが商店街であることがわかる。
この坂道を降りたところに駅がある。高村は仕事がひと段落するといつもこの道を歩いて羽根木公園へいっていた。 とはいえ、ここ1年は仕事らしい仕事はしていないので久しぶりの散歩だ。
高村は踏切の手前にあるコンビニエンスストアに入り、カップ酒とイカの燻製を買う。羽根木公園の梅まつりは先月終わっているから、梅の花は見られないかもしれないなと高村は思いながらコンビニ袋をブラブラさせて歩いた。
ベビーカーを引いた若い女性が高村とすれ違う。赤ん坊がベビーカーのなかから小さな手を伸ばして高村のジーパンに触ろうとする。
「いけません」
若いお母さんが赤ん坊をたしなめる。
「いえ」
高村は小さく言ってすぎる。
羽根木公園に入る急な坂道を高村はゆっくりと歩く。桜の木につぼみがついているが、高村はうつむいたまま歩く。高村は思案していた。
娘がもしも大学に合格したら、自宅から通学するにしろ、相当のお金がかかる。ここ1年間貯金を切り崩してきたが、そろそろ限界がきている。
しかし、完全に仕事に復帰したら家事はどうする。大学生になるとはいえ、娘は掃除、洗濯など一切しないし、自分の部屋もリビングもちらかし放題である。
家で仕事をする高村にはこれがストレスとなった。几帳面で綺麗好きな高村は自分のデスクに娘のケータイ充電機やiPodが投げてあるだけでイライラした。口やかましく注意しても娘はちらかし放題だった。
やはり母親がいないとダメなんだなあ、と高村は考える。
高いフェンスの向こうは野球場の緑の芝生が広がっていた。試合があればここで見学するのだが、今日はなかった。野球場には誰もいない。曇り空のせいか、芝生に反射する白い陽光もフェンスが落とす黒い影も見えなかった。
野球場の外周の小道は歩くと落ち葉を踏む音がした。木の匂いもする。テニスコートからパコンパコンとボールを打つ音が響いてくる。目を向けると、そこには白いシャツに白いスコート姿の40前後の女性が2人でテニスをしていた。
黄色いボールがコートの外へ転がっていく。2人ともとてもうまいとはいえなかった。
テニスコートの先が梅林である。
高村は桜よりも梅が好きで、毎年この公園の梅まつりに参加して、下手な俳句を投函していた。だが、去年の梅まつりには行かなかった。今年の梅まつりはもう終わってしまった。
高村は人影のない梅林を眺める。梅林深く入って行く。高村は空いているベンチに座った。そのとき、ケータイメールの着信音が鳴る。娘からのメールを知らせるマークに高村は目を向ける。受信メールのボックスを開く。
『合格してたよ。今夜は遅くなる』
高村は短い文章を丁寧に読んだ。
そうか、合格かと思った。
『おめでとう。よく頑張ったね』
そう返事を送った。
祝福する気持ちと困惑の気持ちがせめぎ合っていた。嬉しいのか、嬉しくないのか、自分でもわからない。
合格、不合格よりももっと違うところで戸惑っているのだ。女子高校生から女子大生へと肩書は変わるが中身は子どものままである。子どものまま大人になっていく娘のことが心配だった。
高村はカップ酒のふたを開け、一口飲んだ。熱い感覚が食道を流れ落ちていく。カップ酒をベンチの脇におき、イカの燻製の袋を破る。2・3本取り出して口に含む。そして、また酒を飲んだ。
やっぱり母親が必要なんだよなあ。
そのとき、ツツッと高村の脳裏にある思いつきが走った。
あいつに来てもらおう。
高村はその思いつきに夢中になった。
カップ酒を手にしてゴクゴクっと喉を鳴らして飲む。一気に酔いがまわり首筋がだるくなる。酩酊するうちに高村はその思いつきが素晴らしいアイデアのような気がしてきた。
さっそくケータイでメールを送ろうと思った。文面をどうしよう。
『どうだ、元気にしてるか? 一度会いたい』
とケータイで打ってみたが、すぐに破棄する。
『大事な話がある』
これもダメだ。
昔の嫌な思い出がよみがえる。高村が熱にうなされているとき、あいつは介抱するどころか足先で高村の腹部をつついたのである。娘が生まれたとき、あいつは育児を放棄してしまった。だから、高村が仕事を休んで育児に取り組んだ。高村の両親が広島から上京してきたとき、あいつは寝室に閉じこもったきり出てこなかった。
あいつは心の病気だった。
しかし、病気のせいだとわかっていても高村には耐えられなかった。
「離婚して何年だろう?」
高村はひとりでつぶやき指を折ってみた。5本の指を折り曲げて、さらに小指から開いていく。中指まで開いて止まる。長い年月が過ぎていた。
その間、まったく会っていなかったわけではない。娘が高校に進学したときはお祝いをもってきた。あいつが娘を買い物に連れ出すこともあった。あいつからメールも時々送られてきた。
もう何か月前のことか忘れたが、メールの文面だけは覚えている。
『会社、クビになりそう。転職先はないし、どうしよう。助けて』
あいつが「助けて」と送ってくるのは珍しいことだった。
しかし、高村にはあいつに対する憎しみが残っていたから、憎しみのこもった返事を送ってしまったのである。
『あなたに協調性がないからです。反省してください』
キツい文面である。
なぜ、あんなキツい文面を送ってしまったんだろう。冷静になって考えてみると残酷な言葉だなと思う。
だから、よけいにこのメールのやりとりは覚えていた。
あれ以来、あいつとメールのやりとりはしていない。
あいつは助けを求めていたわけだから、高村が誘えば復縁できるかもしれない。 そう考える半面、
イヤイヤイヤ。もしも復縁したとしても、またあんな嫌な思いをするのかと思うとぞっとする。
あいつと一緒に暮したいという思いと、それを否定する思いがあった。
どうする?
高村は悶々としながら梅の花を見上げた。白い清楚な花が緑の葉の間にいくつか残っていた。ほのかに梅の香りもする。
『梅さけど 鶯なけど ひとりかな』小林一茶
急にそんな俳句が浮かんできた。何の脈略もなく。
こんな大事なこと、メールで送るのはよくない。直接行って話そう。あいつは、仕事を辞めているはずだから、きっとアパートにいる。そうだ、直接会って話そう。あいつの住んでいる西荻窪のアパートは知っている。何度か行ったことがある。
そうだ、いまから西荻窪へ行こう。
東松原から井の頭線に乗り、吉祥寺へ行き、JRに乗り換えればひと駅である。近いではないか。
行って、謝ろう。キツいメールを送ってしまったことや離婚してあいつをひとりぼっちにしてしまったことなどをすべて謝ろう。高村はそう思った。
高村はベンチから立ち上がる。「うん」と力強くうなずく。飲みかけのカップ酒を梅木の根元に投げ捨てた。残ったイカの燻製と空きカップはゴミ箱に捨てた。
羽根木公園から東松原駅までの道は早足で歩いた。走り出しそうな勢いだった。あいつに会う、あいつに謝る、あいつと復縁する、そう思うと、なぜか全身に力がみなぎってくる。高村はこんなにもあいつを求めていたことに気付いて我ながら驚いた。
東松原駅から吉祥寺行きの電車に乗った。永福町駅で急行電車に乗り換えた。あいつとは高校1年生のときからの付き合いである。広島の映画館で『ロッキー』を観た。リスボンという喫茶店でクイーンのLPレコードをかけてもらった。あいつとは一生をかけた恋愛だったなと高村はつくづく思う。もうお互いに50歳を過ぎているのだ。
電車が終点の吉祥寺駅に到着したとき、高村の胸に急に不安が襲った。 あいつと復縁して、本当にいいのか?
また、あの苦しい生活になるのだ、お前は耐えられるのか?
高村は自分に問うてみた。答えは見つからない。
京王・吉祥寺駅の改札を出て階段を下りるとすぐ右側がJRの改札である。JRの電車に乗ればひと駅目が西荻窪である。ここからだと10分もあればあいつのアパートに行ける。
さあ、どうする?
高村は、階段を下りて左へ歩いた。公園口に出て、人波をぬって歩いた。高村の足は井の頭公園へと向かった。丸井デパート脇の路地を早足で歩いた。まるで何物かから逃げるような歩き方だった。
「俺は逃げているのか?」
高村は自問してみた。
エスニックな民族服を売っているブティックや黒い服ばかり売っている店、焼き鳥屋やケバブの店などが並ぶ道には人通りが多かった。焼き鳥屋からは白い煙が流れでている。焼き鳥のたれの焼ける甘い匂いがした。
公園の入り口には背の高い木々が緑の濃い影を作っていた。高村は池の中央にかかった橋を渡る。橋のなかほどまで歩いて止まった。橋の欄干に手をかけて足元の池に目を落とした。カモが争って餌をついばんでいる。
高村から1メートルほど離れた場所で老婆がパンの切れ端を池に投げ入れていた。そのパンを10数羽のカモが争っていた。
オレンジ色の夕焼けが水面に映えていた。早咲きの桜がところどころで白い花びらをつけている。夕日が池の水や桜の木や高村の顔をオレンジ色に染めていた。
「何をやってるんだ、俺は」
高村はイライラした声を出した。 あいつのアパートはもう目と鼻の先だというのに、いったい何をやっているのだろうか。高村は自分が情けなくなった。
吉祥寺駅に戻り、JRの改札を入った。高村は西荻窪駅で降りた。南口の階段を下りて、アーケードのある通路を抜ける。あたりはすっかり暗くなっていた。寒い風が高村の体をよけいに緊張させる。
まっすぐ南に伸びた道を歩きながら高村は心臓の鼓動を感じていた。 どうしよう。どうしよう。どうしよう。
どんな顔をしてあいつに会えばいいのか、高村は緊張の度合いをますます上げていった。
うす茶色の壁に白い手すりの2階建てアパート。その2階の右から2番目の部屋だ。部屋の明かりはついている。
あいつがいる。あいつがいる。あいつがいる。どうする。
高村は震える手でドアフォンを押した。
しばらくして、声がした。
男の声だった。
ん?
なぜ男の声がするのか。
「はい」
顎ヒゲをはやした30前後の男が出てきた。
「……」
高村は言葉が出てこない。
「また、あんたか、いいかげんにしてくれよ」
顎ヒゲの男は「警察呼ぶぞ」と言って高村を睨む。高村は無言で立ちすくしている。呆然とした表情だ。
顎ヒゲの男はしばらくしてドアを閉めた。
そのとき、高村はすべてを思い出す。
あいつは死んだのだ。1年と3か月前にこの部屋で、ひとりぼっちで、何も食べずに……。
高村のまぶたから一筋の涙が流れ落ちた。
了