有賀 亮
8月半ば、その日は異常に暑かった。
腕が汗でザラついた日の夕方。
蒸発した水分を取り戻すかのように体は飲み物を欲した。
ユキの知っているという店はカウンターだけの細長い居酒屋。
開店間もない時間、客は僕達だけだった。
カギ型のカウンターは15人も入ればいっぱいになる。
入口に近い席に横並びで座り、荷物は足元のかごへ。
二人とも喉の渇きを癒すためジョッキを立て続けに2杯頼んだ。
ユキも飲める方だが、この日のペースは早すぎた。
1時間経った頃だろうか、
オススメだという芋焼酎を頼む頃には
したたかに酔っていた。
目黒駅前という場所。
酔い始める時間までほかに客がいないことは
何かの前兆と捉えていれば
あの事故は避けられたのかもしれなかった。
「だからさあ・・・」
「そうじゃなくって・・私が言ってるのは・・」
酒の量に比例して会話は飛び、言葉は荒くなっていった。
「学生に媚びるようなマネしなくていいんじゃない?」
「媚びる? 何それ。日本語の使い方が間違っている!」
面倒臭くなり僕は横をむいた。
「それは下の人が上の人にゴマするときの言葉でしょ!」
「まったく優秀な先生だな。文法だけ正しいことを教えてりゃそれで済むんだ」
「何がいけないのよ。間違いは間違いでしょ」
「ニュアンスってもんがあるだろ。『全然OK』という言い方も『最強にマズイ』
という言い方も分法的には間違っているよ。間違っているけど表現としては伝わるし、
存在するんだよ」
「お兄さん!おかわり!」
「もう、止めとけよ。飲み方が荒いんだよ」
「間違った日本語使う人が偉そうに言わないでよ! 年上のくせに」
「年上のくせに? それこそおかしいだろ。年上だから偉そうに言うんじゃないか!」
「あたしが言っているのは、年上のくせに間違った日本語使わないで! ってことよ」
二人は完全にムキになっていた。
「もう出よう」
「おあいそー! 早くして」
「ごちそうさま! とっても美味しかったわ!」
「こっちこそ・・『最強に』うまい酒だったよ!」
「また言ってる!」
僕たちは無口のまま目黒駅の改札を通り山手線への階段へ向かった。
突然、ユキが言った。
「あ、電車が来てる!」
その瞬間、
どちらからともなくダッシュして階段を駆け降りた。
その駆け降りるスピードは尋常ではなかった。
なぜそんなに急ぐ必要があったのか。
いち早く電車に乗ってこの空気を変えたかったのかもしれない。
はやく今日という日を終わらせたかったのかもしれない。
そしてそれは叶った。
ふわっと体が浮いたかと思うと、流れる光景がスローモーションになった。
階段を踏み外した僕は背中からホームに叩きつけられた。
「ドンッ!」
鈍い音が周囲に響く。
「いてえぇ・・・」
ホームの人だかりは沈黙した。
停車中の電車の中の人たちまでこちらを覗き込んでいた。
痛さと恥ずかしさが融合すると「痛い」という言葉しか出てこないらしい。
背中から着地した瞬間、聞こえたドン! という鈍い音、
それは
羞恥心が暴発した音。
ユキとの関係が粉砕した音。
そして肋骨と手首の舟状骨を骨折した音。
誰がなんと言われようと『最強に』痛い夜だった。
了