女難の相
山口倫可
情治は、『年収100万円サバイバル生活』を読んでからというもの、複雑な思いでいた。
地位も財産も家族も、全ては物欲なのかもしれない。
それらから解放された生活はどんなものなんだろう。
「ねぇ、あなた聞いてるの! これ、あとはあなたのサインと判だけだから」
秋子は、アイスティーの氷をストローをガシガシ突きながら、離婚届の用紙を指差した。
「元気そうで、安心したよ」
情治は、秋子の甲高い声を聞きながら、運ばれてきたコーヒーに角砂糖を一つ落とした。
「あたりまえよ。あなたがいなくなってから、うちの中も私の心も平穏な毎日よ」
秋子は落ち込んでいる自分を、意地でも情治に見せたくないようで、視線が落ち着きなく動いた。
「そうか」
「戻って来たいなんて言わないでよ。あなたの部屋はもうないんだからね」
なにか、情治に突き刺さるような冷たい言葉を秋子は探しているようだった。
「わかってるよ。リサはどうしてる?」
「あなたとはもう話したくもないって。当たり前よ、娘と同じ歳くらいの女性と浮気するなんて」
「すまないと思ってるよ。だけどあれは誤解なんだ」
管理職になった三年前から、情治は身だしなみとしてエステやネイルサロン、ジム通いをし始めた。タフでできる上司、部下から好かれる上司を心がけていた。
エステティシャンのマリエの、「オシャレなホテルのラウンジに行ってみたいな」という言葉に、うっかり乗ってしまったのが間違いの元だった。
「誤解? 笑っちゃうわ。あなたと彼女がホテルに入って行くの目撃したのはリサなのよ」
「だから、それは…。まあ、もういいよ。これ以上話しても無駄だしな」
酔った彼女を介抱してやるつもりだったのだが…。
情治はコーヒーを飲みながら、鬢に僅かに白いものが混じりはじめた秋子が、目一杯着飾って来ているのは、対抗意識からだとわかっていながら、
「おまえ、その服派手すぎるんじゃないか? 若い男でもできたのか?」
と、軽口を叩いてしまう自分が情けなかった。
「余計なお世話よ。私が誰と付き合おうとあなたとは関係ないでしょう」
いつもシューズしか履かない秋子がピンヒールを選んでいた。
「まあ、捨てられないように気をつけろよ。おまえも若くないんだから」
そう言いながら、情治は彼女に本当に相手がいたらどうしようと不安になる。正直、マリエのワガママ勝手な態度には辟易としていた。
翌日、会社に着くと部下たちがひそひそと話しをしていた。情治が入って行くと皆それぞれ席に散っていった。デスクにつくと、総務の新人が書類を届けに来た。
「部長、おはようございます。田中部長からの書類です」
「ありがとう、そこに置いといて」
机にある書類の山に目を通しながら、情治は早口で応えた。
「わ、なんかすご?く甘い香りしますね?。お菓子ですか? これ、ココ…」
女子社員が、新人の口をおさえ慌ててドアの外に連れていった。
情治は、女子社員の奇怪な行動に疑問を覚えたが、そのうちに忘れてしまった。
昼休み前に、珍しく田中が一緒に飯を食おうと内線をかけてきた。
「久留仁、おまえ離婚するんだって? 原因はやっぱりあれか?」
ラーメンをすすりながら、同期の田中が左の小指を立ててニヤッと笑う。
「ずいぶん若い娘と付き合ってるらしいな?。羨ましいよ。」
「誰から聞いたんだ、そんな話」
「今朝うちの新人が行っただろ。おまえの課の人間に余計なこと言うなって叱られて帰ってきたらしいぞ」
「なんのことだ?」
「最近おまえトワレ変えただろう。女性社員はそういうことには敏感なんだ。ココナッツの香りがしたって言ってたぞ。20代か? ピチギャル系だって噂たってるぞ? どこで知り合ったんだ。俺にも紹介してくれよ」
田中は、腹を軽く叩きながら爪楊枝を口にした。
彼は総務部長なのに、陰では宣伝部長と呼ばれていた。
情治の背中に冷たい汗が一筋流れた。
「バカいえ、あ、あれは最近買った軟膏の匂いだ。肌荒れが酷いって薬局で言ったら、あの軟膏がいいってす、すすめられたんだよ」
咄嗟に出た言い訳で吃りながら、情治は記憶がフラッシュバックした。
1年前の夜、確かこのラーメン屋から出たところで占い師に呼び止められたことがあったな。
感情線に星が出ているから注意しろと。
情治は突然の大嵐に巻き込まれ、巨大な渦で溺れる白昼夢を見たような気がした。
(了)
桑山元 (水曜日, 16 9月 2015 20:53)
「B」
最後の謎明かし的なところが理解できず、何度か読み返しちゃいました。
「年収100万円サバイバル生活」の本が占い師と絡んでるか、前半に占い師につながる部分がわかりやすく入っているとニヤリと笑って満足していたような気がします。
個人的な趣味ですがσ(^_^;)