タイトル「今どきの、女はつらいよ!」
山口倫可
「光子さん、光子さぁん!!」
誰かが遠くで叫んでいる。光子は泥沼からやっとの思いで這い出るように、重い身体をベッドの上で反転させる。
眠りにつけたのは明け方三時。昨日の商談はキツかった。
「き、気持ち悪い・・・吐きそうだこの匂い」
寝ていた臭覚が突然敏感になり、大嫌いな湯がいた玉葱の匂いに反応する。階下から遠慮なく上がってくる匂いに光子はムッとする。
「いつまで寝てるんですか、光子さん?もう八時になりますよ!!」
再び甲高い声が階下から響いてくる。
3ヶ月前から同居している義母は遅寝早起きだ。光子は自分が監視されているような気がしてうんざりしている。
吐き気を押さえながら階段を下りていくと、リビングには和服割烹着姿の義母が立っていた。
「おはよう、光子さん。昨日もずいぶん遅かったわね」
リビングに充満した匂いを外に追い出したくなり窓を全開にすると、2月の冷たい風が図々しく一気に入ってきた。
「あら、お母様、昨日は残業があって遅かったんです。誠司さんには伝えていたんですけど」
「残業ってあなた、タクシー帰りなんて男の人じゃあるまいし!それに、玄関に落ちていたこれは何? あなた、仕事仕事なんて言って、こんなところに行ってるじゃないの!」
義母は黒いカードを手のひらに持って、ひらひらとさせている。
玄関って? 二日酔いの頭の中に夕べの記憶が段々と戻ってくる。
そうだ、あの豪華なバーでイケメンのバーテンダーにもらった名刺だ。確かチェリーブロッサムを飲み過ぎて・・・。
体中の毛穴から冷たい汗が噴き出す。
「商談って、本当に商談してるのかしら? まさかあなた浮気なんてしてるんじゃないでしょうね」
「え? 浮気?」
さすが、鋭い。二日酔いの頭が一気に冷めていく。
「光子さん、どうなの?」
「浮気は絶対にしていません。浮気じゃありませんから、あれは営業活動ですから」
「あれってなんですの? あれって」
「いえ、あの、その。すみません。お母様、ちょっと気分が悪くて」
慌ててトイレに駆け込んだ。
・・・どうしよう。こんなときどうすればいいか先輩に聞いておけば良かった・・・
光子は保険会社の外交の仕事を始めて半年、大手通信会社のD社総務部部長をA先輩に紹介してもらい成績を上げ始めている。昨日はその総務部長とA先輩とで会食をする予定になっていた。
ところが、A先輩が子どもの具合が悪いとドタキャンし、光子は一人で出かけたのだった。
勤めるようになってからほとんど毎日が残業で、夜の会食も忙しくなるほど増えていった。夜こそが、営業の働きどころ、ここで勝負をかけなければいけないのだ。
こんな時になんで義母と一緒に住むことを認めてしまったんだろう。光子は今さらながら後悔する。
言い訳をあれこれと考えながらトイレを出てリビングに戻ると、義母はカエルを飲み込む蛇のように光子を睨みつけ、
「いったいどういう事なのかしら? 私の納得のいくように説明してちょうだい。毎日残業なんて、信じられないわ。仕事で外に出るのをいいことにして、あなた、遊びほうけてるんじゃないの?」
あなたの息子が稼いでこないから、私が外に出て稼がなきゃ行けないんですよという言葉を飲み込んで、光子は言った。
「いまどきは女性だって会社の中心になって動いてるんですよ。私はお母様が考えているほど暇じゃないんです。いい加減にしてください! とくに保険の外交ってライバル会社もいっぱいいるし、女だって身体を張って頑張らないと大変なんです!!」
義母の手に握られている『スカイラウンジバー 妖艶』と書かれた黒いカードを奪い返し、
「これは取引先の方といったバーですよ。会社の先輩に教えていただいたんです」
・・・なんで、落としちゃったんだろう。あんなに気をつけて帰ってきたのに。夕べのことがバレたらもう終わりだ・・・光子は頭を正常に回すことがなかなかできない。
「由緒正しい高級ホテルの最上階にあるバーなんです。景色もいいのでお互いリラックスしながら話せますし、商談も上手く進むんです」
なんとか平静さを取り戻そうとおもうが、隙がないように組み立てようとした言葉は空をつかもうとしてバラバラと落ちていく。由緒正しいって何?
光子は義母の刺すような眼差しを除けて、リビングにかけられているメロディー時計の振り子人形を見つめる。
「それにしたってあなた、誠司さんより遅くなるなんて。ご近所の方々はいったいどう思うのかしら」
重役の妻として家を守ることが生き甲斐だった義母には何を説明してもわからないだろうと光子は思う。
「お母様、このマンションのローンを返すためには私も稼がないとならないんです。誠司さんのお給料だけでは八十を越えてもローンを返し続けなければならないんです。お母様にはいろいろと不便おかけして申し訳ないですが」
25歳で仕事を辞めて結婚。家事に専念してきた光子にとって、20年経った今、OL復帰というのは考えているほど楽じゃなかった。
チヤホヤされていたOL時代とは180度変わって、今は女性も男以上に仕事をしないと振り落とされる時代だ。
「でもねぇ光子さん、そろそろあなた子供のことだってしっかりと考えないと。もう45歳でしょう。結婚して20年にもなるのに、このままじゃあ・・・」
子供子供子供、頭の中にはそれしかないの? 結婚した当初からそればかり言われて光子はうんざりしている。義母にとって自分は子供を産むだけの人形なのだろうと思う。
「そのことは誠司さんとちゃんと話し合っていますから大丈夫です。病院だって行ってるんですから、お母様に心配していただかなくてもこれは私たち二人の問題ですから」
期待されていることは十分わかっている。でも、もう半分以上諦めている。協力的じゃない夫にも光子はガッカリしていた。
もう一度、生き甲斐を見つけて自分を取り戻したくて始めた仕事なんだ。この仕事でもう一度人生に花を咲かせてみせると光子は思う。
「あ、もうこんな時間! 準備して出かけなくちゃ! 私、着替えてきます。朝ご飯はいりませんので」
これ以上、義母に関わっているとろくな事はない。ソファーの上に置きっぱなしにしていたバッグをつかんでリビングを出ようとするが、ソファーの背もたれにぶつかり床に落ちた。
「何やってるんですか、あーあー、せっかくお掃除したのにこんなに散らかして」
手帳や、資料、カロリーメートの箱の中の菓子クズがばらばらと絨毯の上に転がる。その中の一番大事なものが義母の足元に落ちていた。それを見て光子は真っ青になる。
義母は怪訝そうにその紫のハンカチの包みをつまみ上げた。そのとき、ハンカチの結び目がはらっとほどけて、直径5センチぐらいの黒い紙くずのようなものがばらけておちた。
「こ、こ、これはなんですか!」
ばらけたひとつをつまみ上げて義母は叫ぶ。
「勝手に人のバックの中身を見ないでください!こ、こ、これは、商談の時に一番大切なものなんです!!」
赤面しながら、光子は義母の手からそれを奪い握りしめ、ばらけた他のものをバッグに突っ込む。
「あ、あなた、いったいどんな商談しているんですか!?」
義母の目は剥き出しとなり、しゃがんだ光子の上に閻魔大王のように覆い被さってくる。
光子の手のひらの中では、勝負下着の黒いレースのブラジャーと細いストラップのTバック下着が…。
「もう、絶体絶命」と光子はつぶやいていた。
(了)