中上健次

こんにちは~


高橋フミアキです。


人との出会いが人生を大きく変えることがあります。


私は20代の頃、

文豪の中上健次先生と出会い、

作家を目指すことを決意しました。



それまで私は、

ポツリポツリと小説を書いていましたが、


どこか本気モードではありませんでした。


私を本気にさせてくれたのは、

中上先生でした。


中上先生がカラオケでよく歌っていた曲に


『無錫旅情』という歌があります。


この歌詞に、


♪命を賭けたらできたのに~~


というフレーズがあります。



「命を賭けたら何でもできる。

お前ら、

まだ命を賭け取らんやろうが!」


と叱責されていました。



そうなんです。

命を賭けたら何でもできるんです。


死ぬ間際に後悔しないために、

出版デビューすることに命を賭けてみようって、

私は思ったんです。


おかげで、

現在17冊を出版する作家になることができました。


中上先生の半生は凄まじいモノがあります。


ウィッキペディアにはこうあります。


和歌山県新宮市春日で、父・鈴木留造と母・木下千里との間に生まれる。


千里が健次を妊娠中、留造が他の女性を2人妊娠させていたことが発覚する。


千里は留造と離別、一人で健次を産む。


千里に去られた留造は、妊娠させた女性のうちの一人と結婚、

健次の半年違いの妹にあたる女児が生まれる。

さらに留造は、この女性との間に2人の男児をもうける。


一方、千里の方も前夫の木下勝太郎との間に5人の子をもうけており(このうち健次のすぐ上の兄


にあたる子供は幼くして病死)、


留造と別れたあとは女手一つで行商をしながら、子供たちを育てる。


やがて、男児一人を連れた中上七郎と出会い、

末子の健次を連れて別の家で同居、

4人での生活をはじめる(千里の他の子供たちは、元の家にそのまま暮らしており、千里はここに


通って食事の世話などをしていた)。



健次が中学生の時、

千里は健次とともに中上七郎のもとに入籍した。


したがって中上健次は「母方で言えば三男、

父方で長男、戸籍上で長男、

育った家庭では次男という複雑極まりない状態」

(『又三郎』)で少年期を過ごしたことになる。

お婆さん子だった母から聞かされた物語は、

後の中上の文学世界の形成に大きな影響を与えた。



1953年、新宮市立千穂小学校に入学する。


小学生時代は自然の中で山遊びをして過ごす。


小学6年生の終わり頃、

12歳年上の異父兄・木下公平が首吊り自殺するという事件が起こる。


中上は大きな衝撃を受け、

作品にもこうした「兄の首吊り」が幾度も登場している。


新宮市立緑丘中学校を経て、

1962年に和歌山県立新宮高等学校に入学する。


体の大きかった中上は中学生のころは不良青年だったが、

一方で精力的に本を読み始め、

高校に入るとサド、セリーヌ、ジュネなどを愛読、

また当時新進作家だった大江健三郎や石原慎太郎などの日本人作家の作品を含め、

膨大な量の読書をした。


高校在学中、処女作『赤い儀式』を執筆する。


1965年、大学受験の名目で同級生とともに上京する。


予備校生として仕送りを受けながら東京で生活、高田馬場、代々木、沼袋、練馬と移り住んだ。

同年「文芸首都」の会員となり『十八歳』を同誌に掲載する。


この時期は新左翼運動に傾倒、

モダンジャズにのめりこみ、「詩学」や「文学界」などの各誌へ作品を投稿、

牧田吉明と交際する。


1968年、「三田文学」誌を通じて柄谷行人と知り合い、

柄谷からフォークナーを勧められ、大きな影響を受けた。


1970年には「文芸首都」を通じて、

後に伝奇小説作家紀和鏡としてデビューすることになる山口かすみと知り合う。


かすみの妊娠を機に、結婚する。


入籍時、名字の読み方をそれまでの「なかうえ」から「なかがみ」に変更する。


妊娠、結婚をきっかけに健次は肉体労働を始め、

8月から羽田空港で貨物の積み下ろし業務に従事する。


その後、宅配業やフォークリフトの運転手などをして家計を支えながら執筆に専念した。


1973年以降、『十九歳の地図』『鳩どもの家』『浄徳寺ツアー』が続けて芥川賞候補となる。


1976年、『岬』で第74回芥川賞を受賞する。

戦後生まれで初めての受賞者であった。


翌年、『岬』の続編で代表作となる『枯木灘』を上梓する。


紀州の「路地」を舞台に、

肉体労働に従事する青年を中心とした血族の物語を、

緊密な文章で描いたもので、高い評価を獲得した。

同作品で毎日出版文化賞、芸術選奨新人賞を受賞する。


中上先生は、

被差別部落の出身であり、部落のことを「路地」と表現されていました。



羽田空港で肉体労働していたときは、

拘束時間の長い仕事だったようです。


「俺はなぁ。

トイレ休憩のときに、

トイレのなかで小説を書いていたぞ」


と言われていたのを覚えています。


そして、

評論家の柄谷行人さんを高く評価されていました。



そのへんのことをウィッキペディアでは、

こう書いてあります。


「柄谷さんから薦められたウィリアム・フォークナーの影響で

先鋭的かつ土俗的な方法論を確立、

紀州熊野を舞台にした数々の小説を描き、

ひとつの血族と『路地』のなかの共同体を中心にした『紀州サーガ』とよばれる独特の土着的な

作品世界を作り上げた」


中上先生も

柄谷さんと出会って、

人生を大きく変えていったんですね。