三島由紀夫は底知れぬ魅力を持った作家です。
本名は、平岡 公威(ひらおか きみたけ)。
ペンネームの三島は静岡県三島の地名に由来します。
修善寺で同人誌の編集会議があるので、
一泊旅行をしに三島駅を通ったとき、
富士の白雪を見て、
三島ゆきおを連想したといいます。
生まれは、
1925年(大正14年)1月14日。
死んだのが
1970年(昭和45年)11月25日。
満年齢と昭和の年号が一致する人物です。
晩年は政治的な傾向を強め、
自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。
1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に、
自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)を訪れて東部方面総監を監禁。
その際に幕僚数名を負傷させ、
部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、
その約5分後に割腹自殺を遂げました。
この一件は世間に大きな衝撃を与え、
新右翼が生れるなど、国内の政治運動に大きな影響を及ぼしました。
幼少期のアダナは、
虚弱体質で青白い顔をしていたことから、
「アオジロ」と呼ばれていました。
しかし学習院初等科6年の時、校内の悪童から、
「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれたとき、
三島はは即座にサッとズボンの前ボタンを開けて一物を取り出し、
「おい、見ろ見ろ」とその悪童に迫ります。
濃紺の制服のズボンからのぞいた一物は、
貧弱な体に比べて大きかったということです。
三島は、10代の頃から文学が大好きで、
小説を書きはじめます。
学習院の校内誌に何作か小説を発表しています。
その後、
三島は東京大学法学部に進学し、
在学中にいくつかの小説を雑誌に発表しています。
21歳のときに川端康成のもとを訪問し、
以後川端の庇護のもとどんどん翼を伸ばしていくのです。
川端とは生涯にわたって師弟関係をむすび交流します。
太宰のことも大好きだったようですが、
三島は本人の前では攻撃的な態度を取ってしまったようです。
1946年(昭和21年)12月14日、
三島は矢代静一と一緒に、
太宰治、亀井勝一郎を囲む集いに参加しました。
この時、三島は太宰に対して面と向かって、
「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と言い切ります。
この三島の発言に対して太宰は虚を衝かれたような表情をして誰へ言うともなく、
「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、
やっぱり好きなんだよな。
なあ、やっぱり好きなんだ」と答えたというのです。
太宰もびっくりしたでしょうね。
三島は大学卒業後、
父親の強いすすめで大蔵省に入省します。
作家の夢もあきらめきれず二足の草鞋生活を続けます。
大蔵官僚の仕事をしながら
毎夜毎夜小説を執筆するという二重生活による過労のため、
渋谷駅ホームから線路に落ちてしまうのです。
この事件をきっかけに、
職業作家になることを父親から許されます。
厳格な父親だったんです。
大蔵省を退職して『仮面の告白』の執筆に入ります。
三島は「この作品に作家的生命をかける」と宣言していますから、
覚悟を入れての執筆だったようです。
この
『仮面の告白』が河出書房から出版され、
三島は作家としての地位を確立します。
同性愛を扱ったセンセーショナルな作品でした。
三島、24歳のときです。
その後は流行作家として大成功します。
『潮騒』『金閣寺』『憂国』『豊饒の海』など、
ベストセラーも次々と発表していくのです。
海外での評価も高く、
とくにヨーロッパで多くの読者を獲得し、
42歳のときにはノーベル文学賞の候補になります。
以降の年もたびたびノーベル賞候補になったというニュースが流れました。
マスコミは受賞を期待しその都度談話を発表しますが、
結局、ノーベル賞を受賞したのは、
師匠である川端康成でした。
川端は受賞の際の報道陣のインタビューに、
「運がよかった」とし、
「翻訳者のおかげ」の他に、
「三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです」と答えています。
川端は三島との対談で、
「君(三島)の作品が海外でよく売れて、
下地を作ってくれていたから私の小説が評価されたんです」
と三島に感謝する言葉を残しています。
そんな慰めの言葉をもらっても、
三島にとっては忸怩たる思いがあったでしょう。
その後、
三島は『豊饒の海』シリーズの執筆に入ります。
ボディビルで肉体改造をはかり、
「楯の会」の活動やら映画の撮影やら、
東大での全共闘主催の討論会に出席するやらで、
忙しい毎日を送ります。
結局、
『豊饒の海』シリーズ第4巻『天人五衰』は、
未完となりました。
辞世の句は、
「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」 、
「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」
の2句。
さらに自決翌日の11月26日に、
自宅書斎で、
「限りある命ならば永遠に生きたい。三島由紀夫」
という遺書風のメモが見つかったといいます。
人生そのものが芸術作品のような作家です。
とうてい真似のできる生き方ではありません。
でも、作家を目指す人々には今も昔も、
少なからず影響を与えた、
そして与え続ける作家です。
(高橋フミアキ)
PS:
三島を語るには、ぜひとも下記の本は読んでおきたいですよね!