小説『ファミレスのキセキ』


ファミレスのキセキ

  花元咲智也 

 二月某日。

 夜二十時半頃、僕は近所のファミレスにいる。僕は週に一度はここに来る。ドリンクバーで時間が稼げるし、広いテーブルが魅力だ。自宅だと、テレビなどの誘惑に勝てず、集中できない。僕はドリンクバーでホットコーヒーを入れる。

 そして、席に戻ると、ベージュのトートバックの中から、書類を取り出す。書類とは、履歴書のことだ。僕は転職活動中の身だった。履歴書を書くためにここに来た。自宅でラフに下書きしてあるので、あとは書き写しをするだけだ。書き写しという単純作業でも、自宅では集中できない。テレビの誘惑だけが理由ではない。テレビを消したところで、今度は大嫌いな静寂が待っている。

 このファミレスでは、他の客の声や、ホールから聞こえる皿の音などが入り混じり、適度なバランスが取れている。そんな理由で、僕の数少ない集中可能な聖域だった。

 しかし、この日だけは違った。思いもよらない奇跡が起きた。僕が履歴書を書き写していると、突然大きな話し声が聞こえてきた。

「ぷはぁー、疲れたぁ!」

「ふふ、結構、集中できたわね」

「うち達にとっては上出来よ」

 二人の女の声だった。僕の集中可能な聖域を崩す声量だ。僕の真後ろの席からだった。振り返ってみたが、パーテーションがあるので顔は見えない。僕は早速集中が途切れてペンを置く。そして、コーヒーを飲み、息を大きく吐いた。せっかく集中していたのに、と心の中でつぶやく。とりあえず、聞こえてくる会話に耳を傾けてみる。

「あのシーンはねぇ、うち的には納得いかないのよ」

「なんで?」

「あいつには、あそこで告白してもらいたかったわ」

「ぎゃはは、あそこで? うけるー」

 店内に響き渡る笑い声だ。僕はすでに集中できずにいた。手元にある履歴書を読む振りをしながら聞き入る事にした。アニメの話か何かだろうか?そんな推測をしながら、耳を澄ませてみる。すると、女の一人が席を立ったのか、足音が聞こえた。おそらく、ドリンクバーで飲み物を補充するか、トイレだろう。

 僕は、一時的に訪れたチャンスを利用し、履歴書の書き写しを再開しはじめた。しかし、そう長くは続かなかった。女が席に戻ってくると同時に会話が聞こえてきたからだ。

「れいちゃん、何ページまでいったっけ?」

「うんとね、36ページ」

「あぁ、こっからか、もう覚えた?」

「うん、ばっちりよ」

「じゃあね、読んでいくから答えてね」

「うん、わかった」

「こっから、36ページの反対語のところからね」

「うん、よろしく」

「a thin person」

「うーん、やせた人ね」

「せいか~い」

「よぉ~し」

「はい、つぎ、a fat man」

「太った男」

「せいか~い、、、ふふふ」

「ん?どしたの?」

「なんかさ、この単語たち、うちらに喧嘩売ってない?」

「え? thinとfatが?」

 一瞬、静かになった。

「これって、うちらのことじゃない?」

「あらま」

 二人は、ふふっと含み笑いをし始めた。

 しばしエネルギーを充電しているようだった。そして、一気にエネルギーを解放する時がくる。

「デブとヤセ?」

 二人の女の声が重なった。

「あはははは」

 二人の女の断末魔のような声が店内に大きく響き渡る。

「うち、こんなの飲んでるからいけないのよね」

「うふふ、あたしが代わりに飲めば丁度よいわね」

 二人はそんな会話の後、しばらく大笑いを続けている。一方で、僕も笑いがこみあげてくる。しばらく下を向きながら動けなかった。二人の姿を想像していたら、おかしくなってきたからだ。背後にあるパーテーション越しの席を覗き込みたくなった。

 僕の中で、デブ女とヤセ女のコンビがリアルに思い浮かぶ。僕は女のお笑い芸人のような姿を想像したりした。二人の会話は、盗み聞きしても罪悪感が生まれない会話内容だった。ちなみに、英単語が出てくるということは、時期的に、受験勉強だろうか。いまどきの高校生はファミレスで勉強するらしい。地方の田舎出身の僕には経験したことがなかった。

 二人の会話に、僕はいつのまにか目的を見失っていた。もはや、履歴書は盗み聞きを誤魔化す為のツールでしかなかった。僕は履歴書を見るふりをしながら、意識はパーテーション越しの二人の会話に集中させていた。

「あ、そうだ、キョウコでも呼んでみようか?」

「え?いいけど、たぶん親が厳しいからこないわよ」

「ま、いっか、ちょっと電話してみるね」

 声の太さからして、恐らく、デブ女が携帯で電話をかけ始める。

 一瞬、静かになる。そして、すぐに静寂がやぶられる。

「あ、もしもし、キョウコ?うちよ、そうそう、元気?」

「今からこない? うん、いつものファミレス」

「なんでか? ふふ、あんた、なんでか聞きたいの?」

 デブ女は、含み笑いをしながら携帯で話している。その会話を聞いたヤセ女が「ふふっ」と笑っているのが聞こえてくる。

 僕は、背後の席から感じる二人の笑いに、ワクワク感に近い、期待感を抱き始めた。

「あのね、うち、高校卒業できんかも」

 デブ女がそう言った時、僕は驚き、振り返りそうになった。いきなり、盗み聞きに罪悪感を抱き始めた。僕は、期待感と罪悪感を同時に抱くといった、そんな心境になった。

「え? いや、親父がね、学費払ってなかったんだって」

「うん、だけどね、先生は、うちに言い出せなかったんだって」

「え? だからさ、しょうがないから、用意していた大学の入学金を払ったさ」

「いや、それでも足りないんだって」

「もう、ほんとに、どうしようかね」

「あ、そうそう、妹の学費も払ってなかったんだって、あはは、ウケるっしょ?」

 デブ女は笑いをこらえきれないのか震えた声でベラベラ喋っている。ヤセ女も一緒になって笑っている。僕は腹を押さえ、声を殺しながら笑いをこらえていた。デブ女の、苦境をネタにして笑い飛ばす姿を想像してしまったからだ。高校生で何という明るさだろうか。僕の罪悪感は一気に吹き飛んだ。僕の心境変化など関係なしに、デブ女の会話は続いている。

「だからね、親父と喧嘩しててさ、家に帰りたくないのよ」

「そんでね、れいちゃんといま一緒に勉強してるの」

「え?してるわよ、あんたね、疑うなら来なさいよ」

 デブ女はずっと携帯で会話を続けている。同時に、ヤセ女の笑い続ける声も聞こえてくる。僕は既に履歴書を書く気を失っていた。しかし、多くの疑問は解消されたせいか、何だかすっきりした気持ちだ。デブ女の、苦境を笑い飛ばす姿を想像している内に、僕は励まされている気がした。自らの体型を進化させるべく、ドリンクバーのジュースを飲み、大学進学どころか、あわや高校卒業もできないかも知れない状況を笑い飛ばしている。

 彼女ならきっと何でも乗り越えるだろう、そう思わせる会話ぶりだった。

「堂々としてみるか」

 デブ女の前向きな態度は、転職活動に対し、少し弱気になっていた僕をそう決意させた。僕は履歴書をバッグにしまいこみ、さっと勢いよく席を立つ。会計をすませようとレジに向かう。ついでに、二人の女が座る席もちらっと見る。

 見た瞬間、僕は思わず、えっ、と声をあげそうになった。

 そこに座っていたのは、お笑い芸人のようなデブ女ではなく、僕好みの美女だったからだ。つまり、顔だけ美女だった。ジャージ姿で声は太く、体も太い、されど、顔立ちは整い美しい。

 携帯電話を片手に、笑う時に、大きな目と口が躍動していて、とても魅力的だった。僕は、そんな笑顔を見せるデブ女に思わず見とれてしまった。自らをデブと言い放つ美女がそこにいた。

 しかし、僕はハッとなり、視線を元に戻す。そして、僕は首をかしげながら、レジに向かう。レジでお金を払いながら、もう一度、美女の姿をチラチラ見る。僕はもう一度、首をかしげながら思う。

「あれって、奇跡だよな」

 ファミレスの外に出て、帰路につきながら美女のことを思い浮かべる。

「あれ、好きかも」

 ファミレスで起きた奇跡により、僕が自分を見失うまで、それほど時間はかからなかった。

(了)