小説『11_46』


11_46

みきなつ・せいた


 智子は、自宅の部屋のベッドに腰掛、軽い溜め息をついた。両親はもう寝たようだ。テーブルの雑誌の間からのぞく、白紙の署名用紙が見えた。みぞおちが重くなる。

 飼い犬の獣医から、「友人が犬のNPO団体をやっていて、被災地の犬の保護と、仮設住宅で飼い主と住めるようにお願いする署名を集めて欲しいんだ」と依頼されたのだ。智子の足元で小型犬のフェクがじゃれている。

 智子は、会社と学生時代からの仲の良い友人二人に署名を頼んだ。元来、人に物を頼むのが苦手な智子は、安直に彼女たちなら断らないと踏んでお願いをしてみた。だが、「子供の時、犬に噛まれてね、嫌いなの」「私、猫派なのよ」とまさかの二連敗。

 智子の目論みは見事に外れてしまった。なんか、裏切られた気がした。更に会社の友人は、「社内で署名なんか集めてたら、お局部長に怒られるよ」と止めを刺すように言った。確かに部長は、口煩く苦手だ。査定に影響があるかもしれない。以後、回りの人たちは全員がそういう考えなんだと、勝手に萎縮して、声を掛けられずにいる。智子は総務部で、社内外の多くの人と接する。

 しかし、業者と会う場合は例のお局部長と同席が多い。たまにそうでない状況でも、お願いする勇気が出てこなかった。断られたらどうしよう。それが先に立つ。いつでも署名してもらえるように用意していたが、結局誰にも言い出せず、皺になった用紙は、テーブルに捨て置かれていた。


 三月十一日。

 智子も例外なく大きな揺れに恐怖した。その夜は、ヘルメットを被って、自宅まで足が痛いのを我慢して歩いたのだった。あれから時間が経った。電力面や原発の事故の事で、不便や不安はあるものの、何とか日常を営んでいる。

 でも、あの日以前とは何かが違っている。何だろう、この喪失感。関東地方は、一部を除き被災地ではない。見慣れた風景はある。家族も犬も友達も会社も仕事も前のままなのに、心が欠けているように感じる。智子は、そんな気持ちを抱いて生活している。少し虚無感に、似ているだろうか?

 署名用紙は埋まらないまま時間が流れた。もうすぐフェクを、獣医に検診で連れて行かないといけない。そんなある日、被災地の犬の報道が流れた。瓦礫の山々の一角で、蹲るもう一匹の犬を守るように、凛と立っている白いレトリバーの姿だった。スタッフが近づくと、激しく吠え立てる。ここは、僕たちと飼い主さんの場所だ、入ってくるなと言っているのだろうか。体毛は濡れて灰色になり、立っている足元はぬかるんでいる。刺すように冷たいはずだ。

 あちこちの水溜りは、海水だろう。晴れてはいるが強い風が、彼らの汚れた毛を泳がせる。画面からは、臭いも気温も感じられない。自分の最悪の記憶を辿り、想像するしかない。そんな物あの犬の状況には、万分の一にも満たない。

 智子は、今の自分を恥じた。心を牢屋に放り込んで動かない。欠けている心の何かを、埋めなければ。その夜、なかなか寝付けなかった。 

 翌日、智子は早めに出勤した。お局部長は、大体、早く出社して机上仕事をしている。署名にノルマはないけれど、あの犬たちのため一人でも多く集めよう。その為には、お局部長を攻略しないといけない。

 集中して仕事をしている部長に恐る恐る近づく。邪魔するなオーラが見える。一喝されたら嫌だな。ここへ来ても、マイナス思考が先行する。

「お早うございます。ちょっと、お願いが」

 眼鏡の奥の、険しい目が向けられた。事情を上ずる声で説明する。

「何故こんな事するの?」

 パソコンから目を離さない。

 智子は、思いの丈を一気に話した。声が段々大きくなる。腋にも汗をかいた。聞き終えたお局部長は、これまで見せた事がない、柔和な表情を見せた。智子は、狐に摘まれた感じがした。

「私もね、犬を飼ってるの。昨日テレビを見て何か出来ないのかしらって考えてたの。お客様や、社内にも話しましょう。沢山集まると思うわ」

 智子の脳裏に、あの犬たちが暖かい場所で過ごす姿が映った。


(了)